江戸城大奥といえば、将軍の正室をはじめ、女性たちだけで生活する男子禁制の世界、まさに女の園・ユートピアの世界である。
大奥には何人ぐらいの女性が暮らしていたかを調べると、千数百人から二千人ほどの間だったようだ。 幕府から直接給料をもらう本来の奥女中と、奥女中が私的に雇う「部屋方」と呼ばれる女性がいたという。
これだけの女性たちが集まり、普段は外出もできない暮らしとは、どのようなものだったのか? 想像力というか、妄想を掻き立ててくれる世界である。
大みそかの夜の裸踊り「新参舞」
大奥で最も身分が低く、風呂の水汲みなどの雑用をこなす「御末」と呼ばれる女性たちがいた。 そして年越しの夜、「新参舞をみんしゃいなー」とはやし立てられ、新参の御末たちが裸踊りをさせられる「新参舞」が行われていたそうだ。
舞台は大奥御膳所の上段板の間。 着物を脱ぎ棄て、頭に手拭い、腰に木綿の湯巻き姿の踊り子に扮した新参者たちが登場すると、古参の女中たちが鍋や木桶の底を叩き、「新参舞をみんしゃいなー」とはやしながらドンチャン騒ぎをしたそうだ。
新参者たちは羞恥心をかなぐり捨て、「え~ぃ くそ~ぉ!」とヤケのヤンパチで踊りまくったのかもしれない。 しかし その姿を想像すると、色気とかエロさがあるというより、思わず笑ってしまいそうな光景である。
今の時代で考えれば、パワハラとかセクハラみたいなものだが、実際には裸で踊ることはなかったそうだ。 囲炉裏を囲んで踊りながら回った程度で、大奥の下級女中たちの日頃の鬱憤晴らしだったようだ。
大奥最高位「絵島」の密通事件
大奥最大のスキャンダルといえば、江戸時代中期に世間を大きく騒がせた「絵島(江島)事件」だろう。 大奥最高位である「大年寄」の絵島が、寛永寺と増上寺の将軍家墓参に外出した。 その帰途に芝居見物に興じ、役者を交えて派手な宴会で羽目を外した挙句、帰城の門限を破ってしまった。
さらに絵島は、このとき訪れた芝居小屋「山村座」の役者、生島新五郎と密通していたと暴露され、大奥全体を震撼とさせる一大スキャンダルへと発展したのである。
厳しかった幕府の取り調べ
これを知った幕府は大騒ぎとなり、大奥の風紀を正すために厳重な取り調べが行われた。
3日間にわたる尋問にも屈せず、絵島は頑なに否認を貫いた。 しかし役者の生島新五郎は拷問された挙句、遂に密通を認めてしまったのである。
死罪から島流しまで1400人近くが処罰された
門限破りより、「密通」の事実が与える世間への影響は大きい。 綱紀引締めか見せしめか、処分は広範囲に及んだ。
絵島の兄と弟は、絵島と一緒に遊んだことにより死罪。 山村座の座長や、絵島の相手であった生島新五郎、絵島に着物を納めた御用商人など、40人以上が島流し。 その他絵島に同行した大奥年寄や奥女中など、大奥関係者千数百名が処分を受けた。
江島のその後
江島は島流しから罪一等を減じ、信州高遠藩にお預けとなり、外出禁止の「囲み屋敷」に閉じ込められた。 酒や菓子は禁じられ、一汁一菜の食事に木綿の衣服と、質素な生活を27年間続け、その地で61歳の生涯を閉じた。 今も高遠城を訪れると、絵島が幽閉された囲み屋敷が復元されている。
門限破りの実際は?
当時の江戸城門限は、七つ時(午後4時頃)。 しかし絵島が帰城したのは暮六つの午後6時頃であった。
では絵島が帰城した時、すでに門は閉められ、門番とひと悶着あったのか? 実際には何事もなく帰城したのである。 絵島の行動が問題視されたのは、当日から20日も後のことであった。
これはもう言いがかり。 更に役者との密通話もでっち上げで、実際は幕府内の権力闘争に巻き込まれた犠牲者というのが真相のようである。
「大年寄」といっても、お婆さんではない。 美しく艶やかな、大人の女の色気漂う34歳であった。 大奥という男日照りの世界から抜け出し、男と遊び狂う媚態を想像してしまうが、どうもこれは下種の勘繰り・邪推のようである。
江戸時代のホストクラブ 日暮里・延命院
絵島事件以降、しばらく大奥のスキャンダルは起きなかったという。 しかし11代将軍家斉の時代に、大きなスキャンダルが大奥を見舞った。 それは大奥女中が、谷中にあった延命院の住職「日道」と密通を重ねたという事件である。
寺社奉行の耳に届いた噂とは・・・
享和3年(1803)、谷中にある延命院のあらぬ噂が、寺社奉行「脇坂安董(やすただ)」の耳に届いた。 多くの奥女中や部屋方の女中が、参詣を理由に延命院を訪れているという。 参詣は単なる口実で、その目的は延命院住職の「日道」との密会であった。
この「日道」という住職は、歌舞伎役者の尾上菊五郎のような美男子。 容姿端麗で、なおかつ坊主なので話は上手い。 まさにホストクラブのNo.1ホスト、大奥女中たちのアイドルのような存在であった。
おとり捜査の女密偵が仕掛けたハニートラップ
寺社奉行の脇坂は、この噂の実態を調べるため、家臣の娘を使っておとり捜査を命じたのである。
密偵となった娘は、奥女中に扮して延命院に参詣。 日道に近づき、誘われるままに身を委ねてしまう。 そして逢引きを重ねて深い関係となり、ついに大奥女中らが日道宛に送った艶書など、動かぬ証拠を入手したのである。 まさにハニートラップ・・・
死罪となった僧侶「日道」
そもそもこの時代、僧侶は女性と交わることは禁じられ、妻帯はもちろん、妾を囲う、遊女と遊ぶことも禁止であった。 これを犯した僧侶は、女犯として日本橋の晒し場で3日間晒され、その後島流しの刑に処された。
しかし日道の場合、住職の身を顧みず、欲情のままに大奥女中や町方の娘を誘惑し、通夜などと称して寺内に止宿させ、さらに身籠った娘を堕胎させたなどの罪で、日本橋の橋詰で晒らされた上、首を刎ねられたのである。
大名家の女中や人妻もいた
日道と密通した女性は、驚いたことに59人もいたという。
数えで25歳の大奥女中「ころ」。 妊娠して日道から堕胎薬をもらって堕胎したそうだ。 同じく大奥の下働きで、19歳の「はな」。 この2人は「押込」という、座敷牢に入れられる罪で罰せられた。
尾張徳川家の若年寄「初瀬」。 33歳。 日道と艶書を取り交わし、通夜と称して延命院に宿泊したという。 年齢や地位を考えれば、分別あっても良いのだが、一度覚えた味を忘れられなかったのだろう。 「永之押込」という、一生座敷牢に入ることとなった。
一橋家の奥勤めだった「ゆい」。 夫もある30歳だが、日道と火遊び。 同じく「押込」の罪となったが、後に自分の行動を恥じたのか、自害したという。
舞台となった延命院は、山手線の日暮里駅から谷中銀座に向けて歩き、「夕やけだんだん」の手前に今もあり、境内には日道の供養塔のあるという。
町娘だけでなく、大名家や大奥の女中を誘惑して関係を結んだ。 それも59人。 これは表に現れた人数で、実際には倍近い女性と関係をもったのだろう。 死罪となってしまったが、羨ましいと思うのは私だけか・・・