真田幸村(信繁)に代表されるような「戦国武将」と聞くと、情けに厚く義理堅く、そして勇猛果敢というイメージがあり、有名な逸話や武勇伝、名言を残した武将が多い。
しかし 武勇伝で飾られた武将ばかりではなく、なかには「オッ・・・」と思うようなドジをしでかした武将も多い。 このようなドジを踏んだ武将を少々掘り下げて調べてみた。 見方を変えれば、乱世を駆け抜けた戦国武将も、普通の人間であるということだ。
第2弾は「荒木村重」という武将を見てみよう。
荒木村重とは
一般的には聞きなれない武将の名かもしれないが、NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」を見ていた方は思い出すかもしれない。
織田信長の重臣として活躍したが、ある時突然信長を裏切る。 そのため信長に攻められ、驚くことに愛人と大事な茶碗を抱えて逃げ出してしまったのである。 その結果 妻子は勿論、数百人もの召使など婦女子の大虐殺という事態を招いてしまった武将である。
それでは何とも卑劣に見える「荒木村重」という戦国武将を見てみよう。
出世の始まりは裏切りから
荒木村重は摂津の池田城主の家臣の家に生まれた。 その村重が主君一族の娘を娶り、池田家の一族に名を連ね、下克上への階段を上り始めたのである。
義兄弟となった池田知正を言いくるめ、池田家当主であった勝正を追放させ、村重が池田家の実権を握ってしまったのである。
この当時、織田信長と将軍足利義昭は対立しており、村重の新しい主君となった池田知正は、将軍足利義昭を味方していた。 そのため家臣である村重も従うものと思われたが、何と主君を裏切り織田信長に味方することを決めたのである。
なかなか権謀術数に長けた人物であったようだ。
剣先の饅頭に食らいつき下克上を完成する
荒木村重が織田信長に取り入った有名な話が 「絵本太閤記」に残されている。
それは信長上洛時に拝謁し、臣従を誓った時のことである。 信長が刀の先に饅頭を2~3個突き刺して、「食してみろ」と村重の目の前に突き出すと、臆することなく大きく口を開けて一口で食べたという。 これを見た信長は「日本一の器」と 賞賛したという。
こうして信長の懐に飛び込んだ村重は、主君であった池田知正を追放して池田家を乗っ取り、荒木家を確立して下克上を完成したのである。
2度目の裏切り 信長に背き 軍師官兵衛を幽閉する
織田信長の配下となった村重は、伊丹城を攻略して37万石の大大名となり、伊丹城を「有岡城」と名を改めて居城とした。
摂津守護となった村重は、織田家の主力として様々な戦で活躍し、次は中国の毛利攻略に向かう羽柴秀吉に従って戦う予定であった。 しかし 何故かここで信長に反旗を翻してしまったのである。 不可解な行動で、現在でもその理由は不明だだそうだ。
驚いた信長は、明智光秀を説得に派遣。 この当時、村重の息子は明智光秀の娘を正室に迎えていたが、残念ながら説得に失敗すると同時に娘も離縁されてしまった。
次に説得に駆り出されたのが軍師官兵衛。 しかし説得どころか、有岡城内の土牢に1年近く幽閉されてしまうのである。
3度目の裏切り 妻子を捨て愛人と逃亡
当然信長は怒り狂い、村重が籠城する有岡城を攻めるが、村重もしぶとく抵抗を続けた。 しかし援軍もなく兵糧も底をつきかけ、まさに落城寸前という時に、村重はまたもや驚くべき手を打ってきたのである。
それは妻や娘、家臣などを裏切り、自分一人だけで城を逃げ出してしまったのである。 それも右手に愛人(側室の阿古)、左手に大事な大事なお茶碗を抱えて・・・
ヒェ~! 冷酷というか自己中なのか? とにかくすごい男だ。
信長の条件を拒否し 妻子を見殺しに
逃げ出した村重は、息子の城である尼崎城に逃げ込んだ。
そして村重のいなくなった有岡城は、約1か月後に信長の手に落ちたが、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、 有岡城に残る妻子などを助ける」という条件を付けたのである。
しかし 何といっても我が身可愛い村重である。 断固拒否! 「女房はどうでもいいよ~ぉ!」とやってしまった。
これに対する信長の怒りは凄まじく、 「荒木一族は武道人にあらず」 と城中に残る人質や捕虜の処刑を命じ、悲劇の幕は切って落とされたのである。
まず最初は婦女子のみ122人に晴着をつけさせ、97本の磔柱に括り付けて鉄砲や槍で処刑した。 次は召使いの女性388人と女房付きの若者124人を、農家に押し 込んで干し草や枯れ枝を積んで火を放ち、一斉に焼き殺してしまう。
そして最後は村重の妻を含めた一族と、重臣の家族の計36人が、京都市内を引き廻された後に斬首。 この時村重の妻”だし” は、処刑の座に着いても動じることなく、処刑の士に会釈をして合掌し刑場に消えていったという。 享年21歳、「今楊貴妃」と呼ばれるほどの美人だったそうだ。
しぶとく生き残り 歴史の舞台に再デビュー
息子の城に籠城した村重だが、結局この城も信長軍に攻め落とされてしまう。 立派な戦国武将であれば潔く腹を切り、妻子や一族、家臣の後を追うことだろう。
しかし そこは残念な武将の村重である。 生への執着心を丸出しにして、再びお茶碗持って落ち延び、広島の尾道で隠棲生活を送ったそうだ。 そして普通であれば、そのまま尾道で生涯を終えた・・・ となるのだが、しぶとい村重は再び歴史の表舞台へ姿を現すのである。
信長がいなくなったら のこのこと姿を現した
1582年、本能寺の変で信長が横死すると、「もう大丈夫・・・」と考えたのか、堺に移り住み茶人としてデビュー。 武士を捨てて出家し、「道薫」と名乗って豊臣秀吉に仕えたという。
出家した当初は、自分の過去を恥じ入り「道糞」と名乗ったが、秀吉が過去の行いを許したので「道薫」に名を変えたという話が残るそうだ。 しかしこの村重が自分の過去を恥じ入るような人物とは思えないので、この話は眉唾ものではないかと思う。
村重が抱えて逃げたお茶碗と 息子のその後
堺に移り住んだ村重は、千利休を師匠として茶人として頭角を現し、「利休十哲」と呼ばれる優れた弟子の一人に数えられているそうだ。
お茶碗を大事に抱えて逃げたことを考えると、その頃から茶のたしなみを持っていたのだろう。
この村重が妻や家臣より大事にしたお茶碗は、「荒木高麗」という名で徳川美術館で見ることができる。 しかし凡人の私には、侘び寂びの世界は理解できない。
また 有岡城落城時、村重の息子は間一髪で救出されて石山本願寺に保護された。 そして母方の姓を名乗って成人し、絵師として活躍する。 その名は「岩佐又兵衛」。 浮世絵の元祖とも呼ばれるほどの有名な絵師である。 私もテレビの「なんでも鑑定団」で、その名を知っている。
信長を裏切ったり妻子を見殺しにするなど、歴史的には批判の的となる人物だが、おそらくそれなりの理由はあったのかもしれない。 また この様な批判や人々からの嘲りなどは、まったく気にしない人物だったのだろう。 「壮絶な人生」といえば格好良いが、実に泥臭く生き延びた人生であったと思う。