滋賀県米原市 北国街道宿場町と大谷吉継の首塚

大谷吉継首塚

旅行日:2022年11月10日

旧中山道の歩き旅を柏原宿で早めに切り上げ、JRで米原駅に向かった。 北国街道の宿場町として栄えた雰囲気を残す町並みを探索すると同時に、関ケ原に散った武将・大谷吉継の首塚を訪れることが目的である。

大谷吉継は好きな戦国武将の一人なので、関ヶ原からの旧中山道沿いにある大谷吉継の陣跡や墓を訪れたが、首塚があるならば訪れなければ片手落ちとなる。 なんといっても、大谷吉継の最後はドラマチック。 首塚を訪れてドラマが完結するような気がする。

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北国街道 米原宿を訪れる

滋賀県の米原は、北国街道の宿場町として栄え、昔から近畿・東海・北陸を結ぶ交通の要衝の地であった。 また米原湊が開かれ、更に中山道の番場宿と結ぶ道が通じると、琵琶湖水運の拠点・物資の集散地として栄えたという。

米原湊跡

米原駅東口に出ると「米原湊跡」の碑が立ち、この付近が湊だったことを示している。

慶長8年(1603)に琵琶湖と入江内湖を結ぶ堀が開削され、湊が開かれたという。 美濃と大阪や京都・北陸を結んで物資や人を運び、明治の頃まで利用されていた。 しかし鉄道の開通により、その役目を終えたという。

米原湊跡

北国街道へ

米原駅東口から国道8号を渡り、国道8号の旧道であった北国街道に向かう。 この北国街道沿いが、往時の米原宿であった。

国道8号から旧道に入ると、すぐに街道らしい家並が現れる。

米原宿 米原宿 米原宿

善行寺への道。 奥に鐘楼が見える。

米原宿 米原宿

街道沿いは衰退しているが、昔はかなり賑わっていたのだろう。

米原宿 米原宿

この辺りが、かつての米原宿の中心のようだ。

米原宿

角田家住宅(国指定登録有形文化財) 江戸後期から明治にかけて建てられた町家が残る。

米原宿

立派な屋根を持つお堂が立つ。 お堂の横には古そうな石仏が置かれている。

米原宿 米原宿

北国街道・中山道追分道標

旧道を進むとY字路となり、分岐点に道標が立つ。 分岐を右に進むと中山道の番場宿へ通じる連絡道。 左へ進むと北国街道で、長浜・木之本を経て越前へ向かう。

米原宿道標

道標には「左 北陸道 なかは満(長浜) きのもと(木之本)」、「右 中山道 はんハ(番場) さめかゐ(醒井)」と彫られている。 1846年に再建された道標である。

米原宿道標

大谷吉継の首塚へ

北国街道沿いの米原宿探訪を終え、米原駅の西口側に向かう。

大谷吉継の最後に関しては、下の関ヶ原を訪れた記事にまとめてある。

中山道 第58宿 関ヶ原宿(2) 古戦場に男の美学を貫いた大谷吉継
「天下分け目」という言葉が冠されるほど有名な関ケ原の戦い。両軍合わせて15~16万の兵力がぶつかり合った。東西両軍の武将たちが見ていた戦場に思いを馳せ、レンタサイクルで古戦場めぐりを行うことにした。

駅から500mほど歩くと、畑の中にポツンとお堂が立っている。 これが大谷吉継の首塚で、遠くに伊吹山が見えている。

大谷吉継首塚

お堂の前にはビニール袋に入ったノートとボールペンが置かれていた。 ページを広げると多くの人が書き込み、訪れた同じ日に2人の人が書き込んでいた。 さすがに人気の高い武将である。

大谷吉継首塚

今まで東海道線への乗り換えで数回米原駅を利用したことはあったが、初めて米原駅前に立つと、何かもの寂しい駅前であった。

新幹線はひかりが停車し、東海道線や北陸本線、更に近江鉄道もある。 これだけの交通網があれば、もう少し発展しても良いのでは・・・

しかしよく考えると、観光資源は乏しく、彦根や長浜に観光客は流れ、買い物であれば新幹線を利用して京都や名古屋のほうが魅力はある。 多くの人は単なる乗換駅として利用し、駅の外に出るということは無いのだろう。

この日は米原駅前のホテルに宿泊し、明日は柏原に戻り中山道歩きを続けよう。

 


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