訪問日:2018年2月14日
昨年9月に左足靭帯を痛め、しばらく自宅で引きこもり生活を送っていた。 しかし年が明けて少しずつ歩き始め、無理しない程度にバドミントンの練習も再開した。
そこでいよいよ旧街道歩きの再開を目指し、少し長い距離を歩いてみようと、近くの街歩きに出かけてみた。
訪れた街は千葉県市川市。 江戸川を挟んだ東京都のお隣、都心から15Kmほどの距離に位置している。 市の中心部であるJR総武線の市川駅周辺は、古い街並みなど寸分も無い。 しかし古くは下総国の国府がおかれ、多くの寺社や面白そうなスポットもいくつか残されている街である。
過酷すぎる荒行の寺 中山法華経寺
中山法華経寺は市川市内であるが、最寄駅は下総中山駅。 日蓮宗の大本山で、鎌倉時代の1260年創建という長い歴史を持つ寺である。
日蓮宗といえば「南無妙法蓮華経」である。 そしてこの寺には日蓮が書いた「立正安国論」と「観心本尊抄」という、2つの国宝が収められている。 「立正安国論」は中学か高校の歴史の教科書に出ていたような気がする。
黒門(総門)
最初は門前の商店街が建てたものかと思ったが、江戸時代中頃に建てられたものだった。 まだ午前中だったせいか、開いている店も人通りも少ない静かな門前だった。
仁王門(赤門、三門)
「黒門」に対して「赤門」と呼ばれている。 名前ほど赤くはないが、どっしりと重量感あふれる造りである。
参道は桜並木
仁王門をくぐると桜並木となり、両側には多くの寺とお土産屋らしき店が続き、やがて木の間越しに五重塔が見えてくる。 桜の季節に訪れたら、さぞかし綺麗なことだろう。
祖師堂
日蓮が祀られている祖師堂。 「比翼入母屋造り」と呼ばれる造りで、横から見ると2つの入母屋造りが合体したような姿が特徴だそうだ。
法華堂
法華経寺の本堂だそうで、祖師堂と共に国指定重要文化財。 日蓮聖人が百日百座の説法を行った霊跡とのこと。
赤い五重の塔
江戸時代前期元和5年(1622)に、加賀前田藩の援助を受けて建立した。 他の五重の塔に比べると細い気がする。
渡り廊下
大荒行堂と祖師堂を繋ぐ渡り廊下。 右奥の建物は、渡り廊下の途中にある宝殿門。
過酷すぎる荒行
境内には「大荒行堂」という建物もある。 ここで世界3大荒行の一つといわれる日蓮大聖人直授の秘伝、大荒行が100日間にわたって行われるそうだ。 この荒行の内容を見ると、とんでもなく過酷なもので、まさに唖然・・・ このような荒行に挑む僧侶達には感服の一言しかない。
【 百日大荒行とは 】
・毎年11月1日から翌年2月10日までの100日間行われる。
・基本的に外部の世界とは断絶。 スマホは? 当然持込み禁止。
・毎朝早朝2時起床。
・朝3時から午後11時までの間に1日7回、寒水に身を清める「水行」を行う。
・食事は朝夕の1日2食。 それも梅干しと白粥のみ。
・その他「万巻の読経」や「木剣相承」相伝書の「書写行」
これは厳しい!! 厳しすぎる・・・
極寒の時期に夜中の2時に起きて水を浴びる? それも1日7回も!
これでは全身シモヤケだ!
食事は1日2食で、梅干しとお粥だけ??
聞いただけで力が抜ける! 食べる楽しみが無くて何の人生だ!
しかし荒行というものは、どこか山奥で行われるものだと思っていたが、こんなに身近で行われているとは夢にも思わなかった。 世俗にまみれ、欲望の塊のように生きている私にとっては、1日か2日で音を上げることは間違いない。
八幡の藪知らず 異次元の世界か魔界の入口か?
中山法華経寺から京成電鉄で八幡駅へ移動。 JR総武線であれば「本八幡」の駅である。 この駅の近くに「八幡の藪知らず」という、昔から絶対に入ってはいけないとされる禁足地がある。 「禁足地」とは古くからの言葉で、神様の為の特別な場所であり、絶対に足を踏み入れてはならない場所を指している。
この「八幡の藪知らず」は、江戸時代から「足を踏み入れたら二度と出られない」という伝承が残り、現在でも禁足地として足を踏み入れる者はいないようである。
正面から見た藪知らず
正面に祀られる不知森神社の後ろには、鬱蒼とした竹藪が広がり、怪しげな雰囲気を周囲にまき散らしている。
藪から脱出に成功した人物は?
空をを見上げると、藪が天を覆っている。
この禁足地に足を踏み入れ、そして唯一抜け出してきた人物がいる。 それは水戸黄門こと水戸光圀公である。 藪の中に踏み込んだ光圀公は多くの妖怪に出くわし、命からがら藪を抜けた後に「決して立ち入ってはならぬ」とお触れを出したとか・・・
拍子抜けの「八幡の藪知らず」
実際に訪れてみると、交通量の激しい国道14号のすぐ脇にある。 そして一辺が僅か20m弱の、余りに狭い面積であることに驚かされる。 また藪を透かして反対側の家などが見えることにも拍子抜けする。
すぐ脇の歩道橋の上から見ると、その狭さが良くわかる。 とんでもなく重度の方向音痴の人でも、この中に踏み込んで方向感覚を失い、藪の中をさ迷い歩くことはないだろう。
しかし 狭い面積の中ではあるが、異次元か魔界に通じる目には見えない入口が隠されていると想像するだけで楽しくなる。
通りすがりに軽く頭を下げる人の姿も見受けられ、現在も禁足地として受け継がれているようである。 酔った勢いで中に入り込む輩がいるかもしれないが、やはり興味本位で中に入ってはいけない場所である。
「やわた」の地名の由来となった 葛飾八幡宮
「八幡の藪知らず」から、京成電鉄を挟んだ反対側に「葛飾八幡宮」がある。 平安時代の創建で、古くから武神として知られ、源頼朝、太田道灌、徳川家康などの武人から崇敬されてきた由緒ある社である。
随神門
参道に建つ随神門は寺院の仁王門にならったといわれ、右大臣と左大臣が祀られている。
葛飾八幡宮社殿
葛飾八幡宮は、平将門の奉幣、源頼朝の社殿改築、太田道灌の社壇修復、徳川家康の御朱印地社領52石の寄進等を受けたそうだ。
千本公孫樹
推定樹齢1200年といわれ、その姿は江戸名所図会にも記録されているそうだ。 多くの幹が寄り添って支え合う姿をしていることから、縁結びの御利益もあると伝えられている。
黄金色に輝く秋の黄葉を見に来たいものである。
源頼朝公 駒どめ石
源頼朝が参拝して戦勝と武運長久を祈願した折、頼朝の馬がこの石に前脚を掛けてひずめの跡を残したという。 どこにひずめの跡があるかはわからなかったが・・・
静かな白幡天神社
葛飾八幡宮から、静かな住宅地の細い道を抜けて白幡天神社に向かう。
白幡天神社は「通称・白幡さま」といわれ、治承4年(1180年)、源頼朝が安房国で旗揚げのとき当地に白旗を掲げたことから、白幡宮と名付けられたといわれている。 拝殿の社号額は勝海舟によるそうだ。
白幡天神社から国府台への道
白幡天神社を出て、真間川沿いに国府台にある弘法寺を目指す。
開通間近な東京外環道
今年の6月頃の開通を目指して工事が進む。 開通すると東関道、京葉道路とも接続し、我が家から常磐道や東北道へのアクセスが便利となる
真間川
国府台近くの真間川沿いは、文学の道として多くの文学碑や万葉の歌パネルが置かれていた。
万葉集に詠われた「真間の継橋」
真間山弘法寺の石段に通じる大門通りに、赤い欄干を持つ小さな橋がある。 橋といっても川が流れているわけではないが、万葉集に詠われた「真間の継橋」である。
「真間の継橋」は江戸名所図会や広重の江戸名所百景にも描かれた、江戸時代の観光名所であった。
【「真間の継橋」概要 】
国府台に下総国府の置かれたところ、上総の国府とをつなぐ官道は、市川砂州上を通っていた。砂州から国府台の台地に登る間の、入江の口には幾つかの洲ができていて、その洲に掛け渡された橋が、万葉集に詠われた「真間の継橋」なのである。
「足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋やまず通わむ」
(足音せずに行く駒がほしい、葛飾の真間の継橋をいくつも手児奈のもとに通いたいものだ)の歌で有名となり、読み人知らずの歌であるが、当時の都びとにまず知れわたっていたのである。市川市教育委員会説明版より抜粋
万葉の美女を祀る 手児奈霊神堂
山部赤人が下総国府を訪れた時、手児奈という絶世の美女の話を聞いて詠んだ歌が万葉集に収められている。 この手児奈の墓所と伝わる地に建てられたのが手児奈霊神堂である。
この手児奈の伝説とは、真間の里(現在の市川市真間周辺)に住んでいた美女・手児奈をめぐって男たちが争いを繰り広げたため、自分のために人が争い傷つくのを避けるため真間の入り江に身を投げてしまったというものである。
「涙石」は乾いていた! 真間山弘法寺
奈良時代に行基が手児奈供養のために求法寺として建立し、後に空海が弘法寺に改めたそうだ。 国府台の高台に建ち、市川の駅方向を木の間越しに望むことができる。
乾いていた涙石
仁王門に続く、急で長い階段を登る。 この階段の途中(下から27段目)に、どんな晴天の日が続いてもいつも濡れている「涙石」というものがある。
しかし訪れた時は言い伝えと異なり、すっかり乾いた石であった。 真冬の乾燥した時期には、濡れる間もなく乾いてしまうのだろう。
仁王門
階段を登り切ると赤い仁王門が建ち、振り返ると木の間から市川の駅周辺を望むことができる。 昔は海が大きく広がっていたことと思う。
鐘楼
境内の一段高い場所に、形の良い鐘楼が立つ。
伏姫桜
推定樹齢400年を越える枝垂桜の「伏姫桜」。 滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」に登場する伏姫から名を付けたと思うが、桜の時期に再訪したいものである。
下総国の統治拠点 下総国総社跡
弘法寺の裏手から国府台公園を目指し、「下総総社跡」の碑を見に行く。
下総国の国府(役所を核とした街)は市川市国府台にあり、現在の国府台公園の野球場付近に政務や儀式を行う国庁があったという。
この下総国総社跡で今回の街歩きを終え、バスで市川駅まで戻って帰途についた。
全部で8~9Kmほどを歩いたが、後半は足が痛み始めた。 痛めた当初とは異なる痛みだが、この状態で1日20Kmを歩くにはまだ無理がありそうだ。
何となく「これ以上良くならないのでは?」と思うようになってきた。 上手に痛みと付き合って、徐々に回復を目指すほかはなさそうである。