旅行日:2017年6月10日
長久保宿の浜田屋旅館に一泊。 6時に目が覚め、昨晩の雷を伴った雨も上がり、空には青空が広がっていた。 天気予報を見ると、午後から雲が広がるが大丈夫そうである。
宿で朝食を済ませ、更に昼食用に頼んでおいたお弁当を受け取り、長久保のバス停から男女倉口目指して出発する。
日 付 | 区 間 | 里程表 | 実距離 | 万歩計 | ルート | |
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2017年 6月9日 |
和田峠 その1 和田宿~男女倉口 |
5里14町 | 21.2Km | 6.2KM | 8,932歩 | Map |
2017年 6月10日 |
和田峠 その2 男女倉口~町屋敷 |
18.4KM | 30,271歩 | Map | ||
下諏訪宿 町屋敷~下諏訪駅 |
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合 計 | 5里14町 | 21.2Km | 24.6Km | 39,203歩 | ||
日本橋からの累計 (累計日数 : 18日目) |
55里4町 | 216.4Km | 228.0Km | 375,329歩 |
里程表 : 別冊歴史読本「図説 中山道歴史読本」より。
実距離 : 各区間のコース計画時、ルートラボを利用して計測した距離。
実距離の数値をクリックで、ルートラボの計画コースを表示
MAP : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図
男女倉口に向けて出発
長久保から、昨日引き返した男女倉口にむけてバスで出発。 和田宿から下諏訪宿まで、約21Kmという長丁場だが、昨日和田峠入口まで歩いているので、この日は約15Kmほどの距離である。
【 長和町循環バス 】
長久保発7時38分の男女倉行の循環バスで出発。
乗客は私一人で、長久保~男女倉口間の料金は100円である。
【 和田峠入口 】
昨日引き返した和田峠への登り口に到着。
「熊に注意」の看板もあり、念のためクマ避けの鈴を付けて歩きはじめる。
和田峠への道
男女倉の和田峠入口の標高は1100m。 峠の標高が1600mなので、標高差500mの登りである。 しかし地図の等高線を見ると、蓼科側からの登りは、さほど急ではないことが判る。
【 三十三体観音 】
登り始めてすぐに三十三体観音が現れる。
中山道荒廃と共に散在していた石仏を発掘し、29体を旧道沿いに安置した。
【 クリンソウ(九輪草) 】
山道沿いには、赤いクリンソウが咲いていた。
円状で、かつ数段重なって咲くので、仏塔の先にある「九輪」に見立てた。
【 人馬施行所跡 】
山道からいったん国道に出ると、人馬施行所が見えてくる。
昔の豪商が建てたものだが、凄い金持ちだったのだろう。
【人馬施行所跡】
江戸の豪商・かせや与兵衛は幕府に金千両を預け、その利子百両で碓氷峠と、ここ和田峠に施行所を建てた。
11~3月の間、峠越えの旅人には粥と焚火を、牛馬には通年で桶一杯の煮麦を与えたそうだ。 その後山抜けにより流出したが、嘉永5年(1852)に再建され、明治3年まで続けられた。
(説明版より抜粋)
【 苔むした石畳 】
苔に覆われた、趣のある石畳が現れる。
昔からのものだろう。 往時の峠道の道幅が判る。
【 広原一里塚 】
山中にポッコリと丸い一里塚が残る。
日本橋から52里の「広原一里塚」で、左塚だけが残っている。
【 廃業した「東餅屋ドライブイン」 】
営業していた時は、力餅などを供していたそうだ。
自販機も停止しているので、水分などの補給も出来なくなっていた。
【 ビーナスラインをトンネルで横断 】
パイプトンネルをくぐってビーナスラインの下を横切る。
この先、くねくね曲がるビーナスラインを3回横断しながら峠に向かう。
トンネルの中には、しっかりと歩道が整備されている。
【 和田峠スキー場跡の横を進む 】
現在は営業していない和田峠スキー場跡を左に見ながら進む。
芝生が敷き詰められた様な非常に歩きやすい道で、峠はもう近い。
【 和田古峠 】
和田古峠到着。 男女倉口から登り始めて1時間50分弱であった。
峠に立つと、諏訪側から吹き上げる風がすごく強かった。
御岳山が見えるそうだが、残念ながら雲の中。
遠くに岡谷の街や、長野自動車道などを望むことはできた。
和田峠を下る
男女倉口からは、誰にも会わずに登ってきたが、峠には山菜取りやハイキングに来たグループがいた。 話を聞くと、車を途中に停めて上がって来たとのこと。
とにかく諏訪側から吹き上げる風が強く、20分の休憩で下諏訪目指して下り始める。
【 水飲み場 】
全身苔に覆われた石仏が立つ。
「水飲み場」と言われているが、水は流れていなかった。
【 ワラビをもらう 】
峠でお会いした山菜取りのご夫婦に再び会う。
「今日は家に帰る」と話すと、「これ持ってけ!」と大量のワラビを頂いた。
【 ビーナスラインを横断する 】
峠の下りでも、車に注意しながらビーナスラインを3回横断する。
案内板がしっかりしているので、道に迷うことはない。
【 西餅屋茶屋跡 】
平坦な草原に出ると、西餅屋茶屋跡である。
人馬が休息する立場茶屋には、茶屋本陣と茶屋が4軒あった。
【 西餅屋一里塚跡碑 】
西餅屋跡の先でビーナスラインを横断し、再び山道に入る。
やがて立派な一里塚跡の石碑が現れる。 日本橋から53里である。
【 山らしい道を下る 】
急傾斜の斜面に付けられた細い道やガレ場が現れる。
つまづいたり、浮石に乗らないよう注意して歩けば、特に問題はない。
左手の下には沢が流れている。
河原には、点々と赤いクリンソウが咲いている。
【 国道に合流 】
国道142号に合流。 和田峠の下りはここで終了である。
ここからしばらくは、歩道のない国道歩きが始まる。
下諏訪宿に向けての国道歩き
和田峠の山道から、交通量の激しい国道142号を歩く。 それもしばらくは歩道も無い道である。 一般的には、山から下ると林道 又は 静かな集落の中に降り、しばらくは山の余韻に浸ることが出来る。 しかしこの和田峠は、唐突に現実世界に引き戻される。
【 浪人塚 】
しばらく国道を歩き、左に分岐する道へ入ると「浪人塚」である。
幕末に水戸浪士と高島・松本両藩が闘い、水戸浪士の戦死者が埋葬された。
【 浪人塚 】
元治元年(1864)11月20日。 この一帯で、水戸の浪士・武田耕雲斎たち千余人の天狗党と、高島・松本両藩の千余人が戦った。 水戸浪士軍に10名ほどの戦死者があり、浪士たちは戦没者をここに葬り、その後高島藩が塚を造って祀ったそうだ。
下仁田を訪れた時、天狗党と高崎藩が闘い、天狗党の僅か13歳で切腹した野村丑之助の墓を見た。 この下仁田から更に進軍して、この和田峠での戦いに繋がっている。 水戸天狗党は、最終的には敦賀で投降し、悲劇的な最期を迎えている。
【 桶橋茶屋本陣跡碑 】
火の見櫓の立つ分岐を左に入り、国道を挟んでS字状に曲がる旧道に入る。
ここには茶屋本陣があり、皇女和宮が休息したそうだ。
【 旧道を歩く 】
国道沿いにある石材置き場の先で、右の草付き道の旧道に下る。
旧道はジメジメとした草付きの踏み跡をたどる。
【 樋橋一里塚 】
旧道から国道に戻り、しばらく進むと右に産廃焼却施設が現れる。
樋橋一里塚跡碑はこの施設の敷地内にあり、今回はパスした。
【 町屋敷の分岐 】
町屋敷バス停先で、斜め左の旧道へ入る。
長かった国道歩きはここで終り、諏訪大社から下諏訪宿へと歩みを進める。
男女倉の登り口から峠まで1時間50分。 峠から国道の合流点までの下りが1時間10分であった。 この和田峠は、今回の佐久側からの登りはハイキングコース。 峠から諏訪側への下りは一変し、傾斜も含めて山らしい登山道へと変貌する。
浅田次郎の小説「一路」にあるように、冬の積雪期に諏訪側から和田峠を越えるには、相当難渋したことだろう。