東京駅八重洲口から外堀通りを日銀方向に歩くと、呉服橋交差点を越えた先に、一石橋が架かる。 この一石橋のたもとに「迷子しらせ石」が立っている。 以前にも訪れたことがあるが、再度訪れる機会があったので、もう一度良く眺めてみた。
そして以前には気付かなかったが、石碑正面の下の方に、達筆な筆文字とは異なる「不」という文字のようなものを見つけた。
「おぉ~! こんな所に・・・」
これは明治初期の高低測量記号、言い換えると水準点が残されていることに気が付いた。
迷子しらせ石
江戸時代の日本橋から一石橋にかけては繁華街で、迷子や尋ね人が多かったそうだ。 当時、迷子は町内が責任を持つことになっていたそうで、安政4年(1857)、近隣の町名主等が世話人となり、一石橋に迷子探しの告知石碑を建立したとのこと。
【 迷子しらせ石 】
正面に「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、左側には「たづぬる方」と彫られ、ここに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼っておいた。 一方右側には「志(し)らす類(る)方」と刻まれ、心当たりがある人はその旨を書いて貼ったそうだ。
江戸では浅草寺や湯島天神にも同様のものがあったが、このシステムを考え出したのは大阪で、その数も大阪の方が多かったようだ。
明治の高低測量几号
「迷子しらせ石」正面の下部を見ると、「不」という文字が彫られている。 これは明治の頃のイギリス式測量による水準点を表し、「几号」と書いて「きごう」と呼ばれている。
【高低測量几号】
石造物に刻まれた「不」の記号は、明治九年(1876)、内務省地理寮がイギリスの測量技師の指導のもと、同年八月から一年間かけて東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。 記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。
その後、明治十七年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。
日光街道草加宿の神明宮にあった「几号」の説明版より抜粋
「不」のマークは、横線は測量に用いる平板、下部は三脚を表しているそうだ。 旧日光街道を歩くと、沿道の寺社の鳥居や灯篭の礎石などに見ることが出来る。
それにしても、こんな都心にもあるとは思わなかった。 注意して見て行けば、他にも見つかるかもしれない。