旅行日 : 2017年01月06日
年が変わり2017年。 正月の間に貯えられた腹回りの脂肪と、アルコールを絞り出すため、正月明け早々であるが、街道歩きに出かけた。
天気は快晴! 風が弱かったせいか、陽射しを浴びて歩いてると、汗ばんでくるような陽気であった。
日 付 | 区 間 | 宿間距離 | 実距離 | 万歩計 | ルート | |
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2017年1月6日 | 草加宿から越谷宿 | 8.6Km | 12.99Km | 16,017歩 | Map | |
日本橋からの累計 (累計日数 : 3日目) |
27.2Km | 38.47Km | 51,550歩 |
宿間距離 : 各区間のコース計画時、ルートラボを利用して計測した距離。
(宿間距離の数値クリックで、ルートラボの計画ルートを表示)
実距離 : 寄り道などを含め、GPSログを基に基に実際に歩いたコース距離。
(ルート欄の「Map」→ GPSログから作図した実ルートを表示)
草加宿から出発
草加市は「草加せんべい」以外、殆どなじみがない。 駅に降り立った記憶もないので、初めての来訪だと思う。 「草加せんべい」の本場だけあって、街中にはお煎餅屋さんが多かった。
【 草加宿出口に建つモニュメント 】
「おせん公園」に建つ草加宿モニュメント。
道路反対側の公園には、「草加せんべい発祥の地碑」が建つ。
【 「鯉のぼり」ならぬ「ナマズのぼり?」 】
草加宿内には、巨大な「草加せんべい」が宙に浮いていたが、
今度は「ナマズ」が青空を背景に空を泳いでいた・・・
札場川岸公園
伝右川という小さな川には「札場河岸跡」の標柱が立つ。 この川を渡ると札場川岸公園で、草加松原の入口である。
【 望楼 】
札場河岸公園には、木造五画形の望楼が復元されている。
望楼の上に見張りを置いて、火事の発見に努めていたそうだ。
【 松尾芭蕉象 】
望楼のすぐ横に、奥の細道に旅立つ芭蕉の像が立つ。
名残惜しいのか、江戸の方を振り返っている。
草加松原
江戸の昔は「千本松原」とも呼ばれ、日光街道の名所だったそうだ。 現在は綾瀬川沿いの約1.5Kmに600本の松が植えられ、遊歩道として整備されている。
【 矢立橋 】
松並木を進むと、太鼓型の歩道橋が現れる。
「奥の細道」の矢立の初めとして・・・にちなみ、「矢立橋」と名付けられた。
矢立橋の先には、もう一つの「百代橋」が架かる。 もちろん「奥の細道」の「月日は百代の過客にして・・・」にちなんだ名である。
【 奥の細道マップ 】
松並木が続く遊歩道には、「奥の細道」のルートも描かれていた。
約5ヶ月600里(約2,400km)の旅だったそうだ。
芭蕉は旧暦3月27日に江戸・深川を出発し、僅か3日後の4月1日に日光東照宮を参拝したそうだ。 私は3日目で、やっと越谷・・・
【 中曽根橋 】
綾瀬川に架かる中曽根橋も、江戸時代風の洒落たデザインである。
蒲生一里塚へ
草加松原の遊歩道を進むと、やがて東京外環道に突き当たる。 この外環道手前で遊歩道は終わるが、外環道の下をくぐり、そのまま綾瀬川沿いに日光街道は直進する。
【 水神さまと馬頭観音 】
草加松原のはずれに、水神さまと馬頭観音を祀った祠があった。
【 蒲生大橋と一里塚 】
蒲生大橋を渡った右手の木立が蒲生一里塚である。
日本橋から5里で、埼玉県内に唯一現存する一里塚だそうだ。
蒲生茶屋通りを進む
かつては日光街道を往来する旅人や、藤助河岸から船頭達が集まり賑わった茶屋が、軒を連ねる立場があったらしい。 現在は茶屋どころか、喫茶店一つもないほど面影を失っている。
【 不動尊を載せた道標 】
馬頭観音と不動尊を載せた道標が祀る祠があった。
不動尊の下には、「是よ里大さがミ道」と彫られているそうだ。
【 ワラジの掛かる不思議な祠 】
ワラジをぶら下げた祠があったが、説明版も何もない。 中には鬼のような顔が彫られた石像が納められていた。 「砂利道供養碑」というらしい。
【 清蔵院の冠木門 】
立派な冠木門を持つ清蔵院。
この寺の山門には、左甚五郎作と云われる龍の彫刻がある。
【 蒲生茶屋通り 】
県道49号(旧国道?)との合流点に、道路名の案内標識が立つ。
名前負けしているような、何もない道であった。
武田勝頼の遺児・千徳丸供養塔
越谷の手前にある照連寺に、戦国武将・武田勝頼の遺児・千徳丸の供養塔がある。 勝頼と共に息子も天目山で自刃して、武田家は滅亡したと思っていたが、遺児がいたとは知らなかった。
【 千徳丸供養塔 】
説明版によると、武田家臣・秋山長慶が武田勝頼の幼君・千徳丸を伴い武蔵国瓦曽根に落ち延びた。 しかしまもなく千徳丸は病気で早世したそうだ。
越谷宿
瓦曽根ロータリーのY字路を左の旧道に入り、越谷宿へと入っていく。 越谷宿は江戸から六里五町(24.1km)で、本陣×1・脇本陣×4・旅籠52を有する、日光街道で3番目の宿場である。
宿場は現在の越谷市中心部から、元荒川の北側にある北越谷近辺まであり、当時は北越谷周辺の方が栄えていたそうだ。
【 越谷宿の街並み 】
越谷宿は1899年の大火で、殆どを焼失してしまったということだが、
旧日光街道沿いには蔵造りなどの古い建物も多く残っている。
塗師屋という黒漆喰の重厚な蔵造りの家も残る。
大正か昭和の懐かしさを漂わす「横田診療所」
まさに「荒物屋」と呼ぶにふさわしい店が現役で営業中。
店先に並ぶアルマイトの鍋、湯たんぽ、箒など懐かしい。
越ヶ谷御殿跡と元荒川
街道から少し外れ、元荒川沿いにある「越ヶ谷御殿跡」と、鎌倉時代のものと云われる板碑を見に行く。 現在は越ヶ谷御殿の跡形は何も残っていないが、「御殿町」という地名が残っている。
【 越ヶ谷御殿跡 】
徳川家康はこの地に鷹狩り用御殿を造営したが、明暦三年(1657)に大火で江戸城が焼失。 その為この御殿を解体し、江戸城二の丸に移築したそうだ。
【 元荒川 】
中山道の熊谷手前あたりで、水草ゆらめく元荒川源流部の清流を横切った。
香取神社
大沢橋で元荒川を渡ると、越谷宿本陣があったようだが、現在は案内板も何もないので判らなかった。 越谷宿の中心部だったようだが、今はその雰囲気はない。
【 香取神社 】
北越谷駅の手前にある香取神社。
本堂裏手の奥殿の四面には、見事な彫刻が施されている。
今回は草加松原がやはり印象的であった。 恐らく立派な松並木が後世に残ると思われるが、他の地区とは異なる行政の取り組みを感じた。 また越谷宿にあった数軒の荒物屋など、これからも残したい街並みであった。
北越谷には丁度13時頃に到着し、まだ早い時間であったが、ここで終了して早々に帰途につく。