旅行日 : 2016年12月05日
仕事も一段落し比較的自由な時間が増えたが、冬の日が短い間は遠くて交通の不便な旧中山道を歩く気はしない。 季節が良くなったら再び中山道を歩くこととし、それまでの間に日光街道を歩こうと思いついた。 北風を正面から受けて歩くことになるが、とにかく出掛けようと日本橋から出発である。
日 付 | 区 間 | 宿間距離 | 実距離 | 万歩計 | ルート | |
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2016年12月05日 | 日本橋から千住宿 | 8.7Km | 11.5Km | 16,342歩 | Map | |
日本橋からの累計 (累計日数 : 1日目) |
8.7Km | 11.5Km | 16,342歩 |
宿間距離 : 各区間のコース計画時、ルートラボを利用して計測した距離。
(宿間距離の数値クリックで、ルートラボの計画ルートを表示)
実距離 : 寄り道などを含め、GPSログを基に基に実際に歩いたコース距離。
(ルート欄の「Map」→ GPSログから作図した実ルートを表示)
再び日本橋から出発
【 お馴染みの日本橋 】
中山道に続き、日本橋から2度目の街道旅への出発である。
昔から仕事やプライベートで良く来るので、特に感慨もない。
【 吉田松陰 処刑の地へ 】
江戸幕府最大であった、伝馬町の牢屋敷跡へ寄り道する。
明治8年まであったそうで、十思公園内には「吉田松陰終焉乃地碑」がある。
浅草橋へ
【 横山繊維問屋街 】
江戸城の浅草橋門から筋違橋門の間にあった柳原土手は、古着屋や古道具屋が軒を並べていたそうだ。 それが問屋街の元となったのだろうか?
浅草橋の下を流れる神田川に並ぶ屋形船。
それにしても凄い色をしている。 情緒ある風景とは余り言えないようだ・・・
神田川は江戸城の外堀の一角をなしてた。
ここには浅草橋門(浅草見附)があり、その石碑が立っている。
賑やかな浅草の観音様
横山町の衣料品問屋街から、浅草橋の人形問屋街を抜け、子供の頃から「浅草の観音様」と呼んでいた「浅草寺」へ向かう。
「浅草寺縁起」によると、隅田川で漁をしていた兄弟が、漁網から観音様を見つけ、土地の長がこれを供養して、自宅を寺にしたことが起源だそうだ。
【 駒形どぜう 】
約200年の伝統を誇る「どぜう料理」の老舗。 生きたドジョウを酒に入れ、蓋をして熱する。 ムチャクチャ暴れるが、やがておとなしくなる・・・
【 ”きんとんうん” とスカイツリー 】
アサヒビール本社屋上の金色の雲。 子供達は”うん〇”と呼んで喜んでいる。
フランス語で「フラムドール」(金の炎)と呼ぶオブジェだそうだ。
【 浅草雷門 正式名称は「風雷神門」 】
浅草の顔「雷門」。 向かって右に風神、左に雷神が睨みをきかせている。
焼失から1世紀を経た1960年に、松下幸之助の寄進で再建したそうだ。
仲見世はすでに正月の雰囲気である。
雷門前から浅草寺境内まで、とにかく外人観光客が多く、賑やかであった。
二天門を出て街道に戻る。 この門には増長天と持国天が祀られている。
四天王のうち、2神だけなので”二天門”か・・・ と納得の名称である。
姥ヶ池跡と待乳山聖天
浅草寺の二天門を後にして、次の目標である”山谷のドヤ街”に向かう前に、「待乳山聖天」に立ち寄ってみる。
【 花川戸公園の姥ヶ池跡に残る「一つ家伝説」 】
二天門から街道に戻る途中の花川戸公園に、「姥ヶ池之旧跡」があった。
説明版によると、「一つ家伝説」と呼ばれる、ちょっと怖い話があるようだ。
【 姥ヶ池跡の「一つ家伝説」 】
姥ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋め立てられた。昔、浅芽ヶ原の一軒家に、娘が連れ込んだ旅人の頭を、石枕で叩き殺す老婆がいた。 ある夜、娘が旅人の身代りになって、天井から吊るした大石の下敷きになって死んでしまう。 それを悲しんで悪行を悔やんだ老婆は、池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。
(東京都教育委員会説明より抜粋)
【 待乳山聖天(まつちやましょうでん) 】
良縁を成就させ、夫婦仲良く末永く和合でいられますようにとの願いを込め、二又大根がシンボルとなっている。
境内には、江戸時代の築地塀が45.5mほど残っている。
初めての山谷ドヤ街
浅草から先へ進むと、左右に「日本堤」とか「清川」という地名がでてくる。 いわゆる「山谷のドヤ街」である。 「山谷のドヤ街」という名は、昔から良く聞いていたが、今まで一度も訪れたことはなかった。
私はすでに年金暮らし。 少ない年金のため、下流老人へとに押し流され、将来お世話になることも考えられる。 その時に備え、下調べを兼ねて、ちょっと寄り道していくことにした。
【 山谷堀公園 】
隅田川から当時の吉原遊郭あたりまで堀は続いていた。
船での吉原通いが、最も贅沢で粋な吉原の遊び方とされていたそうだ。
【 山谷銀行の貸金庫か? 】
月極と言えば駐車場だが、ここではコインロッカーが月極で借りられる。
路上生活者が、荷物(全財産)を預ける、まさに山谷銀行の貸金庫!
【 簡易宿泊所が並ぶ 】
路地に入ると、簡易宿泊所と呼ばれる宿が数多く並んでいる。
思っていたより綺麗だったが、今も昼間からオッチャン達がたむろっていた。
【 ”あしたのジョー” の舞台 】
漫画では、泪橋交差点付近に、ジョーが通った丹下段平のジムがあった。
最近はドヤ街に住んでいた日雇い労働者の高齢化が進み、また海外からの旅行客をターゲットに、ドヤ街から旅人への街へと変わってきているそうだ。
ドヤ街の面影が無くなる前に、更に深くまで足を踏み入れ、良く見てみたいと思う。 近いうちに吉原とセットで、「ディープな東京 街歩き」を楽しんでみよう。
首切り地蔵と延命寺 小塚原刑場跡
南千住の大きな陸橋で常磐線を越えると、江戸の三大刑場の一つであった「小塚原刑場跡」である。 「首切り地蔵」という恐ろしげな名を持つ地蔵や、歴史的有名人が眠る千住回向院がある。 Wikipediaによると、明治初期に廃止されるまで、何と20万人以上の刑が執行されたという、とんでもない場所である。
私は鈍感だが、霊感の強い人は何か感じるのだろうか? 恐ろしや・・・ 合掌!
【 最後の斬首刑 「高橋お伝」 】
千住回向院にある、「高橋お伝」の墓(花が供えられている墓)。
明治12年1月に斬首刑となり、その後斬首刑が廃止された為、お伝は最後の斬首刑囚となった。 「お伝の墓参りをすると三味線が上達する」とのことで、現在も多くの女性が訪れるそうだ。
【 「桜田門外の変」襲撃者達の墓 】
万延元年(1860年)3月3日、雪の降る江戸城桜田門外で、井伊直弼を襲撃した関 鐡之介以下18名の墓が、同じ千住回向院にある。 テレビや小説で見る歴史的事件が、現実味を帯びて生々しく迫ってくる。
「桜田門外の変」は、襲撃時の様子などを含め,下記の記事にまとめてある。
足立やっちゃ場跡へ
隅田川に架かる千住大橋を渡ると、足立市場である。 ここからは「やっちゃ場通り」を進む。 戦国時代から青物問屋が並び、毎朝“やっちゃいやっちゃい”と威勢のいいセリ声が響いたそうだ。
【 千住大橋 】
徳川家康により、隅田川に最初に架けられた橋である。
東北への唯一の橋だったので、この先の千住宿は大いに賑わった。
【 松尾芭蕉の像とやっちゃ場 】
足立市場前の「奥の細道プチテラス」に、松尾芭蕉の像が立つ。
【 やっちゃ場通り 】
昔は30軒近くの問屋があったそうで、通り沿いの家々には、
昔の屋号や由来を記した札が掲げられている。
千住宿
千住大橋を渡った所から千住宿だったようで、本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠55軒であった。 現在も延々と賑やかな商店街が続いている。
【 宿場町通り 】
「宿場町通り」商店街が宿場の中心だったのか、
古くて趣のある建物が何軒か残っている。
【 可哀そうな本陣跡 】
宿場町通り商店街の入口に、「本陣跡碑」があった。
百円ショップの前で、自転車などに囲まれて見落としそうである。
【 歩道のタイル 】
歩道上には、宿場をイメージした様々な柄のタイルが埋め込まれている。
【 宿場の雰囲気を残す建物 】
都心から電車で30分もかからない街に、
宿場の雰囲気というより、古い歴史を感じさせてくれる建物が残る。
【 絵馬屋 】
江戸中期から代々続くそうだ。
絵馬堂などに奉納される、本格的な絵馬を描くのだろう。
【 横山家 】
江戸時代後期に建てられた「横山家」
お客様をお迎えする心がけから、戸口を道路より一段下げて造られている。
【 槍かけ団子の「かどや」 】
参勤交代の武士達が、近くの寺の松に槍を立てかけていた。
そこで「槍かけ団子」と名付けられたようだ。
【 江戸時代からの骨接ぎ名医「名倉醫院」 】
江戸時代から「骨つぎと云えば名倉、名倉といえば骨つぎ」と云われるほど、良く知られたらしい。 江戸末期の長屋門が残る。
日本橋から千住宿の間で、一番の見どころは「山谷のドヤ街」であった。 多くの簡易宿泊所と、昼間からオッチャン達がウロウロしたり、道端で話し込んでいる。 何となく日常と異なる雰囲気を感じる。 「このままドヤ街の世話にならずに済むよう、これからも頑張ろう・・・」と考えながら、ちょっと早いが北千住の駅から帰途につく。