幸橋(さいわいばし)門は、JRの新橋駅近くにある第一ホテル前付近にあった。 現在は「幸橋」という地名は残っていないので、馴染みのない名前であり、「新橋」の間違いではないかと思えるくらいである。
しかしこの幸橋門のあった場所や帝国ホテルの立つエリアは、現在「内幸町」と呼ばれる町名である。 これは幸橋門の内側に位置していることが由来だそうだ。
虎の門から旧河岸通りを行く
虎の門から現在の新橋に向かう外堀通りは、昔は外堀であった。 したがって虎の門から幸橋門に向かう道は、外堀通りの一本北側(皇居寄り)の細い道を進む。
この道は外堀沿いの道として昔からあり、河岸通りと呼ばれていた。
旧河岸通り入り口
桜田通りを挟んで、文部科学省側から見た旧河岸通り入口。 左の日土地ビルの横の道が旧河岸通りである。
昔の道の名残りがある
日比谷公園からの通りを渡り、ガソリンスタンドと蕎麦屋の間の左の道に入る。
この僅かに曲がった部分は、江戸の頃から曲がっていたようである。
江戸切絵図で見る
中央に青い円で囲った屈折部分が、上の写真にある現在の道の部分である。 外堀には「新シ橋」が架かっていたが、現在は西新橋一丁目の交差点であろう。 また真田家上屋敷があったようで、六文銭が描かれている。
出土した外堀石垣
小さな石垣
旧河岸通りを更に進むと、日比谷セントラルビルの手前に小さな石垣がある。
地下4mから掘り出された
説明版によると、三井物産別館増築工事の際、地下4mから発掘されたそうだ。
石垣などは腐らないので、地中にはまだ多くの遺構が眠っているのだろう。
幸橋門跡
日比谷通りを横断し、更に旧河岸通りを進む。 JR山手線の赤レンガ造りの高架にぶつかるが、江戸切絵図でみると、この付近に幸橋門があったと思われる。
幸橋門の跡
第一ホテルの前あたりに、幸橋門の枡形があったようである。 写真の円形タイルは幸橋門跡を示すものではなく、近辺には標柱も何も無い。
外堀上を走るJR
幸橋門跡付近から、新橋駅方向を見る。 赤レンガの高架が続くが、有楽町と新橋間の高架鉄道が開通した明治43年当時のものであろう。
幸橋の名が残る
JRの高架橋を見ると「幸橋架道橋」と名が付いている。 幸橋門の遺構も地名も無いが、辛うじてここにその名を留めている。
新幸橋石柱
幸橋門跡から少し有楽町寄りに進み、東京電力本社前に「新幸橋」と名の付いた交差点がある。 ここを右折し、「新幸橋架道橋」というJRのガード、首都高速の下をくぐると、左角に「新幸橋」と書かれた石柱が立つ。
新幸橋石柱
関東大震災の時、橋が無かったために日比谷公園に逃げることができなかったことを教訓に、昭和初期に篤志家や企業の寄付により橋が架けられた。 石柱には、橋を架けて東京市に寄付を行った人や、企業の名が刻まれている。
幸橋門で外堀は二手に分かれる。 一つは左に曲がり、北へ向きを変えて数寄屋橋や呉服橋方向へ向かう。 もう一つは直進し、汐留川として浜離宮から江戸湾(東京湾)へと流れる。 この汐留川沿いには「芝口御門」や「浜御殿」の石垣が残るので、これらは番外編として紹介する。