桜で有名な千鳥ヶ淵に沿って半蔵門を目指す。 この門の警固を担当した旗本・服部半蔵の伊賀組屋敷がこの付近にあったので「半蔵門」の名が付いたそうだ。 もう一つの説として、山王祭の山車として作った象が、大きすぎて門を半分しか入らなかったことに由来するという話もある。 作り物とはいえ、門に挟まって半ケツ状態の象のお尻を想像すると面白い。
千鳥ヶ淵沿いに歩く
田安門から九段坂を進み、お濠に沿って左折し、千鳥ヶ淵沿いの遊歩道に入る。 この遊歩道は、春には花見客で溢れるが、それ以外の季節はのんびりと歩ける道である。
田安門を振り返る
田安門を出発して振り返る。 土橋の上は桜並木だが、この先千鳥ヶ淵も含め、桜の季節に写真を再度撮りに来よう。
千鳥ヶ淵
千鳥ヶ淵沿いに続く遊歩道を進む。 遊歩道上や、お濠の土手も桜が大きく育ち、お花見の時にはライトアップされる。
千鳥ヶ淵には貸しボートもある。 お花見時以外の季節は、写真の通り空いている。
半蔵濠と鉢巻石垣
千鳥ヶ淵と半蔵濠を隔てる土橋の上は、皇居を一周する内堀通りをショートカットする代官町通りが通る。 江戸時代にこの土橋はなく、明治33年頃に千鳥ヶ淵に新たに土橋を作り、千鳥ヶ淵と半蔵濠に分けられた。
半蔵濠と鉢巻石垣
土橋の上から半蔵濠を眺める。 土塁の上に石垣が積まれていることが判る。 この石垣を鉢巻石垣と呼ぶそうだ。
【3段構造の土塁】
水面に接する部分 つまり1段目の石垣を「腰巻石垣」、この腰巻石垣の上に土塁が乗り、その土塁上部に築かれた石垣を「鉢巻石垣」と呼ぶそうだ。 そして「腰巻」と「鉢巻」に挟まれた土塁部分は、何と「腹巻土塁」と言うらしい。誰が名付けたか知らないが、今は「腰巻」などは死語に近い。 名付けた当時は「サンドイッチ」は一般的ではなかったのだろう。
半蔵門
右手の英国大使館を眺めながら更に進むと、遠くに半蔵門の土橋が見えてくる。 この門を入ると吹上御所である。 天皇家が皇居への出入りに利用している為、一般人は通行禁止である。
和田倉門を移設
明治4年(1871)に渡櫓は撤去され、高麗門だけとなり、その高麗門も東京大空襲で焼失した。 現在の高麗門は、関東大震災後に解体・保存されていた和田倉門のものが移築された。
門の入口には柵が置かれ、門に近づくことはできない。 遠くから衛視の立つ門を眺めるだけである。
半蔵門からの眺め
半蔵門から桜田門方向を見ると、なかなか美しい眺めを望むことができる。
切絵図で見る
半蔵門は大手門の対面にあり、江戸城搦め手門の位置を占めている。 搦め手門とは、城の表門 つまり大手門に対する裏門を意味している。 家康の江戸入府当時、江戸城陥落時に幕府直轄の甲州への避難路として想定されたと言われ、半蔵門から四谷見附に通ずる旧国府路(現新宿通りから甲州街道)沿いに、旗本や御家人に家を与えて防衛にあたらせた。
半蔵門表門説
半蔵門に関してネットで調べると、半蔵門は裏門ではなく表門であるという説があることを知った。 『日本史の謎は「地形」で解ける』(竹村公太郎著・PHP文庫)という本で述べられているそうだが、他にもいろいろあるようだ。 とりあえず図書館でこの本を見つけ、当該部分だけ拾い読みしてみた。
【半蔵門表門説要約】
『日本史の謎は「地形」で解ける』内で、著者の説を要約すると、下記の4点である。1. 五街道のうち、唯一甲州街道(新宿通り)だけが江戸城に直結している。
2. 甲州街道は尾根道であり、浸水や高所から敵が攻めてこないので安全である。
3. 江戸古地図では、甲州街道から見る江戸城の「御城」の文字が正立している。
4. 大手門は低地で入江を埋め立てた危うい土地であった。『日本史の謎は「地形」で解ける』(竹村公太郎著・PHP文庫)より超要約
現在も残る千代田区の一番町、二番町という町名は、幕府の親衛隊である旗本1番隊、2番隊、3番隊が住んでいた所である。 大手門側は大名屋敷が並び、旗本以上に警固は厳しかったのではないかと思う。 しかし今まで半蔵門は裏門にあたると思っていたので、なかなか興味深い話であった。