常磐橋門は、天正18年(1590)架橋と言われ、東京では最も古い橋のひとつだそうだ。 現在の橋は、明治10年(1877)に建造された石橋である。 しかし老朽化が激しく また東日本大震災により大きく変形し、崩落の危険性があったそうだ。 そのため、現在は解体修理の工事が行われている。
一石橋と迷子しらせ石
呉服橋交差点を渡ると、しばらく姿を消していた外堀が再び水面を見せる。 現在の日本橋川である。 ここに一石橋という橋が架かり、その傍らには「迷子しらせ石」と呼ばれる石柱が立っている。
江戸時代の一石橋界隈
現在の一石橋には、立派な親柱が立っている。 この橋は古くから架かっていたようで、江戸切絵図を見ても、一石橋の名で描かれている。
一石橋親柱の傍らに、「迷子しらせ石」と呼ばれる石柱が立つ。 江戸時代の日本橋から一石橋にかけては繁華街で、迷子や尋ね人が多かったそうだ。
当時、迷子は町内が責任を持つことになっており、安政4年(1857)近隣の町名主等が世話人となり、一石橋に迷子探しの告知石碑を建立したとのこと。
【 迷子しらせ石 】
正面に「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、左側には「たづぬる方」と彫られ、ここに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼っておいたという。 一方右側には「志(し)らす類(る)方」と刻まれ、心当たりがある人はその旨を書いて貼ったそうだ。江戸では浅草寺や湯島天神にも同様のものがあったが、このシステムを考え出したのは大阪で、その数も大阪の方が多かったようだ。
久し振りに姿を現した外堀
一石橋からは、久し振りに水面を表した外堀を眺めることができる。 現在の日本橋川で、その上は首都高速に覆われてしまっているのが残念である。 先に見える橋は、現在の常盤橋である。
常盤橋
日本橋川に沿って歩くと、すぐに常盤橋がかかっている。 これは現在の常盤橋で、旧常磐橋が狭かったので、幹線道路用として昭和元年に架けられた。
修復中の旧常磐橋
常磐橋門に架かっていた橋は、天正18年(1590)架橋され、現在残っている橋は、明治10年(1877)に建造されたアーチ型の石橋である。 東日本大震災以前は、人道橋として利用されていた。 しかし震災の影響で変形が生じ、崩落の恐れが出た為、解体・修復工事が現在行われている。
常磐橋門跡
修復工事中の常磐橋と、枡形跡の石垣が見える。 対岸の常磐橋公園からは、この石垣を間近に見ることができるが、現在は工事の囲いで近づくことはできない。
この写真は、2015年3月に撮ったもので、まだアーチ部分が残っている。
橋を構成する石は一つ一つに番号を付けて解体し、再度同じ場所に戻すそうだ。
2016年の10月に再訪すると、アーチ部分も解体され、ほとんど姿を消していた。
この常磐橋は、小石川門を解体した時に出た石を再利用して作られたそうだ。 解体が進む中で、小石川門を普請した池田家の印が刻印された石も出てきた。 工事完了予定は、平成29年度である。
今も昔も金融・経済の中心地
常磐橋の架かる堀の外側正面には、日本銀行本店の旧館と新館が建つ。 江戸時代の金貨鋳造所であった金座があった場所である。 小判の鋳造や品質管理などを行い、現在の造幣局の前身にあたる。
日銀本店の旧館は、明治・大正期の建築家として有名な辰野金吾による設計で、上空から見ると、”円”の形になっていることは有名である。
僅か300mの区間に3つの常盤橋がある
工事中の常磐橋門跡を過ぎると、やがて「新常盤橋」と名のついた橋が現れる。 最初にあった現在の「常盤橋」、江戸時代の常磐橋門前に架かっていた「常磐橋」、更に現れた「新常盤橋」と、僅か300mほどの間に、「常盤橋」という名を持つ橋が、3本も架かっている。
同じ様な名の橋が続くが、よく見ると字が違うのである。 現在の常盤橋や新常盤橋には「盤」、江戸時代の常磐橋には「磐」の字が用いられている。 常磐橋門は、部首の「皿」は割れることがあるので縁起が悪く、この「磐」の字を用いたそうである。