千葉県船橋市にある「割烹旅館 玉川」が、閉館したことを新聞記事で知った。 100年近くの歴史を持ち、あの太宰治も滞在したという老舗である。
利用したことはないが、新聞記事によると6月から取り壊しが始まるそうだ。 昭和の風情を色濃く残す建物が消えるのは残念であるが、最後に写真に残そうと出かけると、同じようにスマホやカメラ持参で写真を撮る人たちが何人も来ていた。
100年の歴史を持つ玉川旅館
入口に立つ船橋市教育委員会の説明版によると、大正10年(1921)に営業を開始したという。
また「玉川」という屋号は、船橋大神宮の奉納相撲で、創業者の父親が名乗っていたしこ名に由来するという。
入口では軒行灯のようなものが迎えてくれる。 夜には灯りがともるのだろう。
玄関も落ち着いている。 食事だけでも一度利用しておけばよかったと悔やまれる。
昭和の風情漂う建物
本館は昭和16年(1941)に建てられ、1階部分に高床式の長い脚があるので、一見すると3階建てに見えるが2階建てとのこと。 しかし建物裏側から見ているのか、長い脚は見えない。
下の写真は、軒行灯が置かれる入口と反対側の、市役所側入口からみた本館の全景である。
背後の高層マンションは、川端康成ゆかりの「三田浜楽園」跡地に建てられたものである。
このように玉川旅館と三田浜楽園は隣接し、昭和初期まで海に面し、玉川旅館には船着き場跡の石垣も残るそうだ。
下の写真のような下見板張りの外壁を持つ木造家屋は、最近では見かけることも少なく、昭和の風情を漂わす貴重な姿である。
太宰治は宿泊費を踏み倒した?
昭和35年頃、作家の太宰治は船橋に1年ほど住んでいた。 この時玉川旅館の「桔梗の間」に20日間ほど滞在し、小説を執筆したそうだ。
しかし太宰治は費用を払えず、当時の女将が本や万年筆をカタとしてもらい受け、お引き取り願ったという。 残念ながら、この時の本や万年筆は火事で焼失したそうだが、滞在した「桔梗の間」は現在も残っているとのこと。
このような逸話もあるが、太宰治が船橋時代の作品「ダス・ゲマイネ」の冒頭部である、「 当時私には一日一日が晩年であった」と彫られた記念碑が残る。
ちなみにこの石碑は、 太宰治の代表作「斜陽」と「人間失格」をイメージし、大小2基の御影石を斜めに設置して「人」の文字を形成しているそうだ。
昔の船橋は風光明媚な土地だった
現在の船橋市の海神や宮本といった町は、 昔は一面が松林で、眼下の田圃の向こうに東京湾を望み、西には富士山が見えるという風光明媚な土地だったそうだ。
明治以来、旧陸海軍の施設が近隣に増え、この玉川旅館も軍人たちでにぎわったという。
楼閣を思わせる建物や、その屋根に置かれた赤い「玉川」の大きな文字は印象的で、市中心部で存在感のある建物であった。
最近は宴会の需要も減り、建物も老朽化。 新聞記事によると、新型コロナでキャンセルが相次いだことや、特注の数万枚ある屋根瓦の張替えだけでも億単位の費用となることから、4月30日に閉館を決めたそうだ。
建物内部を見られなかったことは残念であるが、何とか保存できないものだろうかと、願うばかりである。