竹橋を後にして、左手に清水濠を見ながら清水門に向かう。 清水門は北の丸の東門で、1657年(明暦3年)の大火で焼失したため、翌1658年(万治元年)に再建されたものだそうだ。
千代田区観光協会のHPによると「この辺りに清水が湧き出ていた、また、古くはこの辺りに清水寺があったことから、その名をとって清水門と称したともいわれています。」とあった。
清水門
竹橋から、左に濠を眺めながら九段方向に進む。 法務局などが入る、第2合同庁舎のあたりまで来ると、前方左奥に清水門が見えてくる。
清水門へ続く土橋
清水門へは橋ではなく、清水濠と牛ヶ淵を分ける土橋である。 訪れたのは10月初旬であるが、夏の間に水草が繁殖したのか、ちょっと汚い感じが残念。
土橋の上から竹橋方向の清水濠を眺める。 正面のビルは住友商事のビルである。
同じく土橋の上から、反対側の牛ヶ淵を見る。 金色の玉葱を冠する、日本武道館が正面に見える。
清水門の高麗門
清水門正面を見る。 高麗門も渡櫓門も立派に残っている。
高麗門をくぐり、枡形内から高麗門を振り返る。
【高麗門】
高麗門の特徴は、門の裏側にある。 門を表から見ると、2本の門柱に切妻屋根をかけた門に見えるが、門の裏側から見ると、門の後ろに控柱が立てられ、 その上にも小さな切り妻屋根が乗っている。高麗門は格式の高い門である。 高麗門と比べ、裏側の柱と屋根がない形は「棟門[むねもん]」と呼ばれ、高麗門より格式は低い。
清水門の枡形と渡櫓門
枡形内から渡櫓をみる。 重厚感があり、見ごたえがある。
清水門の枡形は、高麗門から入ると右に曲がって渡櫓をくぐる。 枡形内の左側は堀である。 したがって高麗門を突入してきた敵を、渡櫓の上や、正面石垣の上から攻撃すれば、敵は後退するか、左の堀に落ちるしかなかったろう。
江戸の姿がそのまま残る 雁木坂
枡形から渡櫓を突破して城内に突入した敵は、直進できずに左に180度回り込まされる。 回り込んだ先は上り坂となるため、勢いは更に削がれることになる。
この坂は「雁木坂」と呼ばれ、江戸時代の姿をそのまま残しているそうだ。 舗装もされていない、石で土止めしただけの階段を歩くと、江戸時代にタイムスリップした気分になれる。
雁木坂を上り切り、左手から下を見ると、歩いてきた清水濠や清水門を見下ろすことができる。
江戸切絵図で見る
清水門の内側には、、江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した、徳川御三卿の一つである「清水家」の上屋敷があった。 この清水家は、9代将軍家重の次男重好に一家を創立させる際、屋敷の入口である清水門にちなんで清水家と名乗った。
切絵図をよく見ると、竹橋門と清水門の間に「砲筒御蔵」とある。 武器庫だったのだろう。
清水門はメインの通りに面していないせいか、訪れる人も少なく、枡形や雁木坂には雑草も伸びている。 静かな雰囲気の中、ゆっくりと見学することができる。