旅行日:2020年3月26日
平塚駅から出発し、大磯宿を経て小田原宿を目指す。 平塚宿と大磯宿の間は26町(2.8Km)と短いが、大磯宿から平塚宿までの間は4里(15.7Km)もあり、この宿間距離のアンバランスは何故なのか・・・ と疑問にも思ったが、深く考えることもなく小田原目指して歩を進める。
江戸時代の旅人は、日本橋を出発して1日目は戸塚宿、2日目に小田原宿に泊まったそうだ。
箱根越えの難所を控え、小田原に宿泊することは理解できるが、僅か2日で小田原まで歩いたとは信じがたい話である。 間違っても真似してみようとは思わない。
日 付 | 区 間 | 里程表 | 計画路 | GPS | 万歩計 | |
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2020年 3月26日 |
平塚宿~大磯宿 | 26町 | 2.8Km | Map | GPS | 32,234歩 |
大磯宿~小田原宿 | 4里 | 15.7Km | ||||
合 計 | 4里26町 | 18.5Km | — | — | — | |
日本橋からの累計 (累計日数 : 5日目) |
20里20町 | 80.7Km | — | — | 146,956歩 |
里程表 : 「旅行用心集」(1810年刊行)の数値を採用。
計画路 : 現代の旧東海道ルート図で、歩く予定のコース。
「GarminConnect」を利用してGoogleMap上に作図。
GPS : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図。
すばらしい松並木が残る
大磯では前方に青空に映える白い富士山が迎えてくれた。 しかしまだ遠い・・・
大磯の中心街を抜けると、後世に残すべき、すばらしい松並木が続く。 この辺りから国府津にかけての海岸は「小余綾(こゆるぎ)の磯」と呼ばれる風光明媚な地として知られ、明治の政財界人の別邸が多く建てられた。
この松並木を眺めながら進むと、左に 旧大隈重信邸や旧陸奥宗光邸があり、 更に 伊藤博文の旧邸宅”滄浪閣” などを見ることができる。
国府本郷一里塚と押切坂一里塚
国道1号を進み、城山公園の所で右の旧道に入る。 この分岐の手前には”血洗川”という恐ろしげな名のついた小さな川が流れるが、その橋のたもとに何かの石碑や古い石仏などが置かれていた。
国府本郷一里塚跡
旧道が再び国道に合流する手前に、国府本郷一里塚跡の碑が立つ。 江戸から17里であるが、実際には200メートルほど江戸寄りにあったそうだ。
国道をさらに進むと、途中に古い石仏などを集めたところをいくつか見かけた。 国道の拡幅などにより、街道沿いの石仏が集められたものだろう。
押切坂一里塚跡
東海道線の二宮駅を過ぎると、やがて日本橋から18里の押切坂一里塚跡である。 この辺りは大磯宿と小田原宿の中間に位置し、また酒匂川の渡しも控えていることから「梅沢の立場」と呼ばれて大変賑わった。 この一里塚のすぐ先には「松屋本陣跡」もある。
津波で冠水が想定される街道
押切坂を下る途中に双体道祖神が立つ。 この押切坂の旧道を逆から上ってくると、距離は短いが傾斜はきつそうである。
押切坂を下り国道との合流点に、「ここから津波浸水想定区域」という標識が立っていた。 小田原までに数か所で見かけたが、東海地震や南海トラフの地震を想定しているのだろう。
我が家は東京湾から約500m、標高3.5mという埋め立て地だが、津波は東京湾に入ってこないようで、ハザードマップを見ても浸水はしないようである。 しかし大地震は勘弁してもらいたい・・・
車坂から国府津へ
国府津に近づくと、西湘バイパスの向こうに広がる相模湾を眺めることができる。 遠くに真鶴半島が見え、その向こうに伊豆の山々が霞んで見えている。
車坂と大山道道標
緩く下る車坂の右に「史跡車坂」の碑が立つ。 景観が良かったのか、「平安紀行」で太田道灌、「吾妻鏡」で源実朝、更に「十六夜日記」で阿仏尼がそれぞれ和歌を残している。
すぐ先の右に入る細い道は「旧大山道」。 大山信仰の対象である大山へ通じる古道で、入口には 「従是大山道」と刻み、上に不動明王を戴いた道標が立つ。 後ろには秋葉山常夜灯も立つ。
さらに進むと、歩道上に双体道祖神と坂下道祖神と刻まれた道祖神が祀られている。
懐かしさを感じる建物
国府津に入ると、街道沿いには時代を感じさせてくれる建物が少し現れる。 街道風の切妻平入の建物だけでなく、大正ロマンを漂わす洋風建築もある。
酒匂川を渡る
下の写真は酒匂橋から河口方向を撮ったものだが、往時の渡しは現在の酒匂橋の上流50mほどの所にあったようだ。 川越人足が肩車や蓮台に旅人を乗せて渡河していたが、10月から3月の間は仮橋が架けられ、 水嵩が増す4月から9月が徒歩渡りだったという。
新田義貞の首塚へ
酒匂川西岸の渡し場跡付近から続く旧道は、国道1号の「土木センター入口」交差点を越えて続くが、この先で南北朝時代の武将「新田義貞」の首塚があるというので訪ねてみる。
千貫橋の欄干が残る
「土木センター入口」交差点を渡ると、古い橋の欄干が現れる。 「千貫橋」という橋で、延宝7年(1679)に架けられた石橋である。 木製の橋から石橋へのかけ替えが千貫にも及んだということが名の由来である。
左右に欄干は残るが、道幅は結構広い。 往時からこの道幅だったのかは不明である。
新田義貞の首塚
南北朝時代に後醍醐天皇(南朝方)から足利尊氏追討を命じられた新田義貞。 越前藤島(現福井市)での戦いで、眉間に矢を受け戦死する。 家臣が義貞の首級を生国である上州に持ち帰ろうとしたが、不幸にも病を得てこの地で没し、村人たちによりここに埋葬されたという。
なお 明治天皇は、明治15年に「正一位」を追贈したそうだ。
小田原宿へ
日本橋を出発し20里余(約80Km)、9番目の宿場である。 戦国時代は関八州を治めた後北条氏(鎌倉幕府の北条氏とは異なる)の拠点として、「 総構(大外郭) 」と呼ばれる空堀と土塁を築き、小田原は城郭都市ともいえる様相になった。 しかし天正18年(1590)、豊臣秀吉に攻められ、後北条氏は滅亡した。
山王原一里塚跡と江戸口見附跡
日本橋から20里の山王原一里塚跡と、小田原宿の江戸方出入口となる見附跡の碑が立つ。
かまぼこ横丁
国道から左に曲がると「鍋町」碑が立ち、北条氏時代から鍋を作る鋳物師が住んでいたという。 現在はその先から「かまぼこ通り」。 街道沿いには多くのかまぼこ店が並ぶ。
懐中電灯の元祖 小田原提灯
小田原提灯を下げたおでん屋さん。 小田原提灯は、使わないときは蛇腹をたたんで小さくして、旅人が携帯しやすくしたもの。 いわば懐中電灯の元祖である。
清水金左ヱ門本陣跡
小田原宿の筆頭本陣を務め、尾張徳川家や九州の島津家、細川家などの大名家が定宿にしていた。 明治天皇は東京遷都や全国巡幸などで5回も宿泊したが、現在は庭石が残るだけである。
なりわい交流館
昭和7年に建てられた旧網問屋を利用した「なりわい交流館」。 出桁造りの典型的な商家の造りである。
少しだけ小田原城
なりわい交流館先の「御幸の浜」交差点で、今回の歩き旅は終了。 小田原駅に向かう途中、小田原城に寄道した。 しかし もう疲れていたので、遠くに天守閣を眺めて終わりとした。 次回来るときには、じっくり時間をかけて廻ってみよう。
この小田原まで歩いた日以降、新型コロナウィルスの感染者数は増大を続け、4月7日の非常事態宣言からStay homeの生活が始まった。 この記事を書いている5月15日の状況から、5月下旬には宣言も解除されそうだが、県をまたいだ長距離移動などの制限は続きそうである。
計画では4月上旬に箱根を越えて東海道の旅はいったん中止し、下旬から新緑の中山道・木曽路の歩き旅に戻ろうと思っていたが、すっかり予定は狂ってしまった。
次の歩き旅に出かけられるのは梅雨時か? はたまた梅雨明けの暑い季節??
しかし雨の中、暑い夏、寒い冬・・・ いずれも歩く気はしない。 このように我儘なリタイア男なので、次はいったい何時出かけられることやら・・・