第8宿 大磯宿 いきなり「番町皿屋敷」で始まった

旧東海道

旅行日:2020年3月26日

新型コロナウィルスの感染が徐々に拡大し始める中、平塚宿から大磯宿、小田原宿へと歩いた。

東京都の感染者数は3月23日が16人、24日は17人であったが、25日には41人と急増した。

不要不急の外出だけではなく、緊急事態宣言の話もチラホラ出始めている。 「これはやばい! 最後のチャンス・・・」と思い、すぐ翌日の3月26日に急遽出かけることにした。

マスクを着用し、朝のラッシュ時を避けて早めに自宅を出発。 一応アルコール除菌のウェットティッシュも持参しての出発である。

日 付 区 間 里程表 計画路 GPS 万歩計
2020年
3月26日
平塚宿~大磯宿 26町 2.8Km Map GPS 32,234歩
大磯宿~小田原宿 4里 15.7Km
合 計 4里26町 18.5Km
日本橋からの累計
(累計日数 : 5日目)
20里20町 80.7Km 146,956歩

里程表 : 「旅行用心集」(1810年刊行)の数値を採用。
計画路 : 現代の旧東海道ルート図で、歩く予定のコース。

「GarminConnect」を利用してGoogleMap上に作図。

GPS  : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図。


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いきなり「番町皿屋敷」

JR平塚駅で下車し、駅前ロータリーから左の「紅谷パールロード」という繁華街に入る。 まだ朝早く、周囲の店は開店前である。 このような時間帯に、いきなり怪談話に思いを馳せることとなった。

番町皿屋敷の女中「お菊」は実在していた!

平塚駅近くの小さな公園に「お菊塚」がある。 「いちま~い、にま~い」とお皿を数えた、悲劇の女中「お菊」の塚である。 実際に化けて出たわけではないだろうが、実在の人物で、ここにお墓があったそうだ。

中山道の板橋宿への途中、四谷怪談の「お岩さん」のお墓を訪れたが、番町皿屋敷も実在人物がいたとは知らなかった。 もしかして「牡丹灯篭」にも???

お菊塚

番町皿屋敷 お菊塚

平塚宿役人・真壁源右衛門の娘お菊は、行儀作法見習いのため江戸旗本・青山主膳方に奉公に出ることになった。 そして青山主膳の家来がお菊を見初めたが、振られてしまった。 頭に来た家来は家宝の皿を隠し、主人に「お菊が紛失した」と告げ口をする。 それを聞いた青山主膳は逆上し、哀れお菊は手打ちにされてしまうのである。
手打ちにされたお菊は長持ちに詰められ、馬入川の船着き場で父親に引き取られた。 紛失したという皿は、後日発見されたそうだ。

この事件は「番町皿屋敷」の素材となり、以降お菊は怨霊となって、夜な夜なお皿を数え続けているのである。

平塚市観光協会説明版より超訳

平塚宿探訪からスタート 

朝っぱらからの怪談話への思いに終止符を打ち、大磯宿目指して歩き始める。 といってもまずは平塚宿の探訪である。 平塚の街は、現役時代に仕事で何度も訪れているので、ある程度街の雰囲気は知っている。 つまり 宿場の面影は期待できないことを・・・

寂しい平塚宿の面影

平塚宿は本陣、脇本陣、旅籠など200軒を超える、東海道屈指の規模を誇ったという。 しかし戦争中の空襲や、その後の区画整理などにより、宿場時代を偲ぶ面影は消失した。

平塚宿の入口であった平塚宿江戸見附跡が復元されている。

平塚宿江戸見附

脇本陣や高札場、更に本陣跡には立派な標柱が立ち、宿場であったことを示している。

平塚宿高札場跡

要法寺と「平塚の碑」

街道から少し奥まった所にある要法寺山門前に、「七面大明神」と刻まれた立派な石碑が立つ。

平塚要法寺

この要法寺隣の公園には、「平塚」の地名の由来となった「平塚の塚」がある。  桓武天皇の孫娘である政子が、京都から東国に下る途中にこの地で没した。 そのため埋葬して塚を作ったが、塚の上が平らだったことから「平塚」という地名が起こったといわれている。

平塚の塚

平塚宿 京方見附跡

旧街道が国道1号に合流した所に、平塚宿の京方見附跡がある。 しかし「位置は定かではなく、言い伝えや資料などでこの辺りと思われる」と説明されていた。

平塚宿京方見附

大磯宿に向かう

平塚宿を出て大磯宿に向かう。 平塚宿と大磯宿の間は、僅か26町(2.8Km)であるが、右に丸い高麗山と、風情ある松並木を楽しみながら歩ける区間である。

花水川と高麗山

奈良時代に高句麗からの渡来人が、この山の一帯に居住して集落を作ったといわれている。 ハイキングコースもあり、山頂の湘南平からの海の眺めは素晴らしい。

高麗山

国道1号線沿いには、綺麗に手入れされた藁葺屋根の民家が残る。

旧東海道

「高来神社」と「虚空蔵尊の祠」

高麗山の麓には、神武天皇時代創建という記録が残る、とてつもなく古い「高来(たかく)神社」が鎮座している。 鎌倉時代には北条政子が安産祈願に訪れ、大磯の虎御前が出家したと云われている。

高来神社

高久神社のすぐ先に「虚空蔵尊」の祠がある。 江戸時代にはここに下馬標が立ち、大名行列はここで下馬し、東照権現(徳川家康)を併祀した高麗寺(現 高久神社)に最敬礼して通ったという。

虚空蔵尊祠

化粧坂と虎御前の「化粧井戸」

国道1号と別れ、静かで街道の趣が残る化粧坂に入る。 読み方は「けわいざか」で、なんとなく歴史を感じさせてくれる良い名前である。

化粧坂

虎御前の「化粧井戸」

仇討ちで有名な「曽我物語」で、曽我十郎の愛妾であった白拍子の虎御前。 この虎御前が、毎朝この井戸から水を汲んで化粧したと伝わる。

虎御前化粧井戸

東海道線を越えて大磯宿へ

毛祝坂一里塚跡を過ぎると、街道は東海道線に行く手を阻まれる。 しかし地下道を通って反対側に出ることができる。

旧東海道

東海道線の反対側に出ても、しばらくは街道の佇まいを残す道を進む。 途中に江戸見附跡の説明版があり、大磯宿へと入って行く。 下の写真は来た道を振り返って撮ったものである。

大磯旧東海道

大磯宿を行く

大磯といえば吉田茂や伊藤博文など、明治維新の元勲や財界人が別邸を構えた地として知られている。 

延台寺 虎御前の供養塔

化粧井戸で朝夕化粧をしていた虎御前の供養塔である。 曽我兄弟の兄十郎と恋仲になり、兄弟が父の仇の本懐を遂げて亡くなり、その後菩提を偲んで庵を結んだのが延台寺である。

虎御前が十郎との恋の成就を願ったという「竜神様」や、大磯宿の遊女の墓碑も見ることができるが、 「十郎の身代わり石」とも呼ばれる「虎御石」は見ることができなかった。(毎年5月開催の祭り時に御開帳されるそうだ)

虎御前供養塔

小嶋本陣跡

古伊勢屋という雰囲気のある店の前に説明版が立つ。 大磯には本陣が3軒あったそうで、小嶋本陣はその中で最大規模の本陣であった。

大磯宿小嶋本陣跡

鰻の名店「國よし」

1803年創業と云われ、江戸時代は旅籠であった。 江戸末期に鰻専門の料理店へと業態変更し、大磯に別荘を構えた明治期の政財界の重鎮や文人たちにもひいきにされたそうだ。 

うなぎの国よし

老舗和菓子店「新杵」

明治24年創業の老舗和菓子店で、見るからに老舗の建物である。 虎子饅頭と西行饅頭が有名だが、今回はパスした。

新杵

新島襄 終焉の地”

同志社を創設した新島襄は、病に倒れ大磯で療養中に没した。 この碑が立つ場所は、百足屋という旅館の跡地である。

新島襄終焉の地碑

「鴫立庵」と島崎藤村の家

大磯は明治期以降、風光明媚な土地として、政財界の重鎮や文人墨客に愛された地である。 伊藤博文や吉田茂など、歴代8人もの首相が別荘や邸宅を構え、“日本一の避暑地”とうたわれた。

この大磯の地で文化的な香りを残す施設も訪ねてみた。

鴫立庵

国道1号沿いにひっそりとたたずむ「鴫立庵(しぎたつあん)」。 京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに、 “日本三大俳諧道場の一つ”と云われている。

庵内には西行法師を祀る「円位堂」や、数多くの石碑が残っている。

鴫立庵

湘南発祥の地碑

鴫立庵入口 に「湘南発祥の地碑」が立つ。 これは鴫立庵入口に立つ標柱に、「著盡 湘南 清絶地(ああ しょうなん せいぜつち)」と刻まれ、これが「湘南」という地名の発祥となった。

湘南発祥の地碑

島崎藤村邸

街道から細い路地に入ると、島崎藤村邸がある。 中山道の馬籠宿本陣に生まれた藤村は、最晩年をこの地で過ごした。 同じ大磯にある「 地福寺 」に夫人とともに眠る。

島崎藤村旧宅

島崎藤村邸入口の先が大磯宿の「京方見附跡」で、京方の出口となる。

 

化粧坂から国道に至る間の松並木、電柱も地中化された大磯の街並みは、戸塚や平塚などに比べて落ち着いた雰囲気を持ち、明治期の別荘地としての名残りを漂わせる街であった。

平塚から大磯までは僅か26町(2.8Km)と近かった。 しかし次の小田原宿までは4里(15.7Km)もある。 これからがこの日の本番ということで、先に進むことにした。

 


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