真田幸村(信繁)に代表されるような「戦国武将」と聞くと、情けに厚く義理堅く、そして勇猛果敢というイメージがあり、有名な逸話や武勇伝、名言を残した武将が多い。
しかし 武勇伝で飾られた武将ばかりではなく、なかには「オッ・・・」と思うようなドジをしでかした武将も多い。 このようなドジを踏んだ武将を少々掘り下げて調べてみた。 見方を変えれば、乱世を駆け抜けた戦国武将も、普通の人間であるということだ。
第3弾は武士とは言えないかもしれないが、江戸幕府五代将軍の「徳川綱吉」である。
徳川綱吉と桂昌院
三代将軍・徳川家光の三男、幼名「徳松」として生まれ、母は京都の八百屋の娘から家光の側室となった「お玉」である。 父である家光が亡くなると、母のお玉は仏門に入り「桂昌院」と名乗り、息子・徳松と共に大奥を離れたそうである。
桂昌院と共に暮らした徳松は、やがて元服して「綱吉」と名を改め、母子水入らずで学問に励む日々を過ごしたが、35歳の時に四代将軍・家綱が没し、五代将軍として再び江戸城に入った。
将軍の母となった桂昌院は30年の時を経て江戸城に戻り、大奥2000人の頂点に立った。 そして大奥だけでなく、表の政治にまで口を挟むようになったのである。
とにかく桂昌院は生涯にわたり綱吉を溺愛し、将軍綱吉の治世に大きく影響を与えたのである。 言葉を変えれば、綱吉はマザコン将軍とも云えるかもしれない。
ちなみにこの桂昌院。 八百屋の娘から大奥の頂点へと大出世したが、これが「玉の輿に乗る」という言葉の語源と云われている。(諸説あり)
神田の柳森神社には、桂昌院が創建した福寿神祠、通称「おたぬきさま」がある。 庶民の出から「他を抜いて」玉の輿に乗ったことにあやかろうと、大奥の女中だけでなく、現在のビジネスマンも参拝に訪れる。
スタートダッシュは良かったが
儒学を徹底的に学んだ綱吉は、学問や礼儀などによって社会秩序を創り上げようと、「文治政治」を目指したそうだ。
とにかく勉強好きな綱吉。 自分が先生となって家臣に講義するほどで、ついには「湯島聖堂」を学問の中心地として建立し、後に幕府直轄の「昌平坂学問所」へと繋がった。 いわば日本の学問の基礎を作った人物と云える。
しかし・・・ しかしである。 その後 歴史の教科書に載るほどの大きな決断を下すのだが、とんでもないことをしでかしたのである。
怪しい坊主のお告げが・・・
綱吉は長男を幼くして亡くし、その後跡取りを授かることはなかった。 それを心配した桂昌院は、お気に入りの僧に相談したそうである。
・息子に跡取りができませぬ。 孫の顔が見たいのですが。
・前世で殺生を行った祟りじゃ!
・ど・・・どうすれば良いのですか?
・将軍様は戌年生まれ。 犬じゃ! 犬を大切にせい!
怪しげな坊さんにたぶらかされた桂昌院からこの話を聞いた綱吉は、素直に母の言うことを聞いて犬の保護に乗り出したのである。
そもそも儒教は親を敬うことを奨励しているので、幼いころから儒教を学んだ綱吉にとって、母親の言うことは無視できなかったのだろう。
御犬様・・・ 「生類憐みの令」
桂昌院の勧めにより、綱吉は人よりも犬を敬った「生類憐みの令」を発布したのである。
この法律は一度に出されたのではなく、徐々にエスカレートしていったそうだ。 犬猫はもちろん、鳥、魚貝類、昆虫などの殺生まで禁じたので、趣味の釣りや潮干狩りでも捕まったのだろう。 鳩に石を投げて島流しになったり、吹き矢で燕を落として死罪などの話が残っている。
このため江戸市中に野良犬が溢れたため、現在の中野に「御囲い」と呼ばれる犬屋敷を作った。 その広さ東京ドーム20個分、収容犬数は10万匹。 農民から集めた年貢を、年間9万8千両も使ったのである。 世界史的にも前代未聞の政策であろう。
このように天下の悪法というイメージがあるが、実際に処罰された事例は69件で、死罪は13件。 大半は下級武士で、町民が処罰されたのは少なかったようである。
他人の女に手を出しまくった好色男
徳川綱吉というと、とにかく「生類憐みの令」で有名だが、無類の女好きだったようで、ここからが本題である。 (女だけではなかったようだが、この部分は割愛する)
人妻だけでは満足できず、その娘まで・・・ 夫は怒りの割腹自殺
綱吉の臣下に「牧野成貞」という武将がいた。 3000石の知行だったが、最後には7万石を越える大名に出世した。 しかしその出世の裏には、とてつもなく痛い代償を払っていたのである。
最初の代償は、妻の「亜久里」を綱吉に奪われたのである。 それも3人の娘の母親である。 よほど熟女が好きだったようである。
しかし綱吉は亜久里だけでは満足できなかった。 あろうことか二女の「安」にも手を付けたのである。 安には既に夫がいたが、大奥へ引きずり込まれた晩に、夫は理不尽さの余り割腹自殺したという。
こうして綱吉に妻や娘を弄ばれた代償に、牧野成貞は出世したのである。 しかしWikipediaによると、 綱吉の傍若無人に耐えかね「牧野家は自分一代限りにしたい」とつぶやいたという。 つまり もう徳川家には仕えたくないということだ。
綱吉の横暴と、自分の非力さに歯噛みしたことと思うが、当時にツイッターがあれば、拡散されて状況は変わったかもしれない・・・
柳沢吉保の側室が欲しい~!
徳川綱吉の側近中の側近である側用人の柳沢吉保、駒込の六義園は彼の屋敷跡として有名である。
この柳沢邸を徳川綱吉が訪れたとき、柳沢吉保の側室である「染子」に一目惚れ! 「欲しぃ~!」と駄々をこねたのである。
柳沢吉保に何人の側室がいたか知らないが、「側室の一人ぐらい、まぁいいか・・・」と差し出したのである。
最後は女房に殺された?
柳沢吉保の側室「染子」を得た綱吉だが、染子に男の子(後の柳沢吉里)が誕生したことで、話はややこしくなるのである。
綱吉は自分の子と信じ、あろうことか将軍後継者に指名しようと目論んだが、周囲は大反対。 特に正室で公家出身の「鷹司信子」は猛反対。
他の女に旦那を奪われ、さらに後継ぎまでとメンツを潰されまくりで大逆上。 遂に江戸城大奥の「宇治の間」で綱吉をプスッ・・・ 刺殺してしまったのである。 そして直後に自分も自刃して果てたという。
しかしこの話は眉唾ものらしく、綱吉の死因は麻疹だったようである。
最近評価は見直されているそうだが・・・
「生類憐みの令」というと、天下の悪法というイメージが強い。 しかし江戸の治安は向上し、「捨て子禁止」や「病人の保護」など弱者救済の面も持っており、最近評価は見直されているようだ。
また綱吉の治世の間に江戸城松の廊下事件があり、浅野内匠頭や赤穂浪士に切腹を命じ、さらに富士山の噴火や地震などの天災も発生したそうだ。
儒教の教えに強い影響を受けた綱吉であるが、儒教には他人の女に手を出すことは不道徳と論じていないのだろうか? モーセの十戒には「汝、姦淫するなかれ」とあるのだが・・・
とにかく変わった性癖の嗜好を持つ将軍だったようである。