旅行日:2020年3月12日
前回の終了地点であるJRの戸塚駅を出発し、今回は藤沢宿を経て平塚宿を目指して歩く。 藤沢宿は日本橋から6番目の宿場で、東海道の駅制が整備される以前から、遊行寺の門前町として賑わっていた。
鎌倉に近いせいか、この藤沢宿には義経伝説が多く残るようで、「義経の首洗い井戸」や「首塚」、「弁慶塚」などが残されている。 また昔何かで読んだような記憶のある「小栗判官照手姫」にまつわる伝説も残る。
藤沢から茅ヶ崎にかけての、いわゆる「湘南」のお洒落なイメージの街に、多くの古い伝説が残っているのは面白い。
日 付 | 区 間 | 里程表 | 計画路 | GPS | 万歩計 | |
---|---|---|---|---|---|---|
2020年 3月12日 |
戸塚宿~藤沢宿 | 1里30町 | 7.2Km | Map | GPS | 34,598歩 |
藤沢宿~平塚宿 | 3.5里 | 13.7Km | ||||
合 計 | 5里12町 | 20.9Km | — | — | — | |
日本橋からの累計 (累計日数 : 4日目) |
15里30町 | 62.2Km | — | — | 114,722歩 |
里程表 : 「旅行用心集」(1810年刊行)の数値を採用。
計画路 : 現代の旧東海道ルート図で、歩く予定のコース。
「GarminConnect」を利用してGoogleMap上に作図。
GPS : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図。
何もない戸塚宿を出発
前回終了した「戸塚駅東口入口」交差点より歩き始める。 江戸時代の旅人は、江戸を出発して約40キロを歩き、一泊目がこの戸塚宿だったそうだ。 そのため旅籠も多く、小田原宿に次ぐ規模だったという。
前回は戸塚宿前半を歩いたので、今回は戸塚宿後半からの出発である。 「戸塚駅東口入口」交差点のすぐ先で、自由通路を使って東海道線を越えて西口に出る。
澤邊本陣跡碑
戸塚宿には、この澤邊(さわべ)家と内田家の2つの本陣があった。
富塚八幡宮
源頼朝・義家父子が建立し、本殿奥に“戸塚”の地名由来となった古墳「富塚」がある。 しかし階段を見て行く気が失せた。
戸塚宿 上方見附跡
戸塚宿の京方出口。 小さな松が植えられているが、何とも寂しい見附跡である。
戸塚宿はここで終了である。 前回歩いた前半を含め、戸塚宿は宿場の面影は殆ど無い。
馬が2度も転んだ大坂(戸塚の坂)
戸塚宿を出ると、やがて「大坂」の上りである。 別名「戸塚の坂」とも呼ばれ、 「佐野の馬、戸塚の坂で二度ころび」と川柳に詠まれたほどの難所だったようだ。
昔は一番坂、二番坂の急な坂が続いたが、現在は改修されてダラダラと長い一つの坂になっている。
坂の途中には、庚申塔などの古い石仏が並ぶ。
「原宿一里塚跡」を過ぎて現れる浅間神社。 参道入口に庚申塔が祀られている。 ポツンとミカンが一つ供えられているのが微笑ましく思える。
旧東海道松並木碑
街道沿いに大きな石碑が立つ。 しかし松並木はなく、傍らに数本が植えられている程度である。 昭和60年頃に猛威をふるった松くい虫の被害で、大半が枯れてしまったそうだ。
遊行寺と小栗判官・照手姫の墓
遊行寺の坂を下ると、一遍上人が開いた時宗の総本山「遊行寺」がある。 正式には「藤沢山無量清浄光寺」というそうだ。 境内には樹齢700年という大銀杏など、見るものは多い。
遊行寺
立派な黒い冠木門の「惣門」から遊行寺境内に入る。 門前には大きな青銅製の灯篭が、対になって立っている。
木造としては東海道随一と云われる本堂。 関東大震災で倒壊、昭和12年に再建された。
小栗判官と照手姫の墓
遊行寺本堂の横から裏手に回ると、浄瑠璃で名高い小栗判官・照手姫ゆかりの 「小栗堂」がある。 正式には「長生院」だそうだ。
常陸小栗の城主、判官満重の子「判官助重」が家臣と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけた。 その時妓女「照手」が助重を逃がし、様々な苦難を乗り越えて二人は再会して結ばれる・・・ というのが大雑把な「小栗判官・照手姫」の物語だろう。
助重の死後、照手は髪を落とし、この地で余生を送りながら助重と家臣の墓を守ったという。 小栗判官と家臣の墓、すぐ横には照手姫の墓もある。
市内に残る藤沢宿の面影
戸塚宿と同様に、藤沢宿も往時の面影は少ない。 しかし時代を感じさせてくれる古い建物を、街道沿いにいくつか見ることができる。
飯盛女を供養した旅籠小松屋
永勝寺境内には、「旅籠小松屋」を営んでいた小松屋源蔵が建立した、39基もの飯盛女の墓が立ち並んでいる。
藤沢宿には27~28軒の飯盛旅籠があり、全盛期には100人ほどの飯盛女がいたといわれているが、このように供養された遊女は珍しく、源蔵の温情が偲ばれる。
義経伝説も多く残る
義経に関する伝説・伝承は、各地に多くのものが存在している。 そして藤沢には「義経の首」にかかわる伝説が残されているが、義経の死後に関する伝説は珍しいそうだ。
義経首洗い井戸
街道から細い路地に入り、マンションに囲まれた小さな公園の一角に「義経首洗い井戸」がある。
奥州で自害した義経の首は鎌倉に送られ、首実検後に腰越の浜に捨てられ、この地に流れ着いたという。 村人がそれを拾い上げ、この井戸で清めたという話が残る。
白旗神社
首洗い井戸で清められた義経の首を葬ったと伝わる。 また「東海道名所記」には、腰越に送られた義経と弁慶の首は、首実検後、夜のうちにこの付近に飛んできたと伝えているそうだ。
これを知らされた頼朝は、白旗明神としてこの神社に祀ったという話も残る。
境内には「源義経公鎮霊碑」、「弁慶の力石」、「江の島弁財天道標」などもある。
弁慶塚
街道から少し奥まった所に、「弁慶塚」とか「弁慶の首塚」と呼ばれているところがある。 「常光寺」という寺の境内を探したが見つからず、草取りをしていたお寺の方に聞くと、ご丁寧にも手を止めて案内してくれた。
石段を上ると「弁慶塚」と書かれた看板があり、さらに一段上がった所に小さな祠と数多くの庚申塔が立っている。
どうも常光寺境内ではないようで、藤沢公民館分館「済美館」横の細い道を入るのが正しい。 しかし案内板もないので場所はわかりずらい。
藤沢宿を後にする
小田急江ノ島線の線路を越えると、藤沢宿出口の「上方見附跡」の標柱が立つ。 宿場の面影は薄かったものの、小栗判官や義経伝説など見どころの多い藤沢宿であった。
江戸時代の旅人は1日目を戸塚で宿泊し、2日目は小田原まで歩いたそうである。 どう逆立ちしても同じように歩くことは無理で、次の平塚宿まで歩いてこの日は終えるつもりである。 要するに江戸時代の人が1日で歩いた距離を、2日かけて歩くことになる。
次の平塚宿を目指して歩を進めるが、茅ヶ崎駅前を通って平塚駅までの、約12キロの国道歩きが待っている。