図書館で本を探していると、「現代訳 旅行用心集」という背表紙が目に入った。 手に取ってみると、江戸時代に書かれた旅行のノウハウ集のような本であった。 出版社は八坂書房で、八隅蘆庵著 桜井正信監訳となっている。
この「旅行用心集」は文化7年(1810)に出版され、当時の代表的な旅行案内書で、長旅をするための知恵や注意すべき事柄が盛りだくさんに書かれているとのこと。
パラパラとページをくくり、全国の温泉を紹介する所を見ると、「箱根の底倉温泉は、痔や脱肛など、すべての肛門の痛みに効くので、男娼がここで良く湯治する」と紹介している。
こんなことまで書いて面白そうと、さっそく借りて読んでみた。 現代に通じることも多々あるが、「ブッ!」と思わず吹き出す珍ノウハウ。 これらの中から、いくつか拾って紹介しよう。
「旅行用心集」が書かれた時代背景
江戸時代は武士も庶民も移動の自由を制限されていた。 そのため通行手形が無いと、各地に設けられた関所や口留番所を通り抜けられなかった。
しかし「伊勢詣で」に代表される、信仰を目的とした旅は比較的に自由だったようで、女性の遠出も次第に認められ、寛政12年(1800)に、幕府は子女の富士登山まで許したそうだ。
制限をひとたび緩めると、信仰の旅と称して庶民の間に一挙に広まり、伊勢詣でや善光寺、金毘羅様、富士講などを楽しんだ。 そして「伊勢参り 大神宮へも ちょっと寄り」と詠まれたように、伊勢参りは単なる口実となり、物見遊山や温泉へと興味は広がっていった。
このような時、「旅行用心集」のようなガイドブックが出版され、この本を懐に旅にでかけていったのだろう。 現在私たちが行っている旅行のスタイルは、この当時と何も変わっていないようだ。
道中用心61ヶ条
「トラベルはトラブル」とう言葉があるように、旅行中には不測の事態が起こり得る。 列車や飛行機の遅れ、何かを忘れたり無くしたり・・・ 江戸の昔は現在とは比較にならないくらい不便だったこともあり、不測の事態が頻発することは容易に想像がつく。
そのため不測事態から身を護るため、「旅行用心集」では61項目もの注意事項をあげている。 これらの中からいくつかを抜粋してみよう。
宿に関する用心
・なるべく造りが立派で賑やかな宿に泊るのが良い。 少々値が高くとも、それなりに良いことがある。
・宿に着いたら、まず最初に東西南北の方向を確かめ、家の造りや便所、裏や表の出入口を見覚えておくこと。
・夜のうちに荷造りし、足袋は寝床の中で履けるくらい準備しておくべき。 朝出掛けるのが遅れると、一日の遅れのもとになる。
→ 私の場合、前日夜は飲んだくれて爆睡。 翌日の準備どころではない。 そして”寝るだけだから”と安いビジネスホテルに泊まり、後悔したことは何度もある。
酒に関する用心
・空腹時に酒を飲んではいけない。 暑いときも寒い時も、酒は温めて飲むのが良い。
・旅行中は焼酎をやたらに飲んではいけない。 中毒を起こす場合がある。 上等なものなら少しは良い。
→ これは耳が痛い。 旅行中は日常から解放され、昼間から酒を飲む。 この楽しみが無いのなら、「何のための旅だ!」と言いたい。
色欲に関する用心
・旅行中は、とりわけ色欲を慎むべし。 娼婦は性病を持っているもので、特に暑いときはうつりやすいので怖い。
・道中で若い女性や草刈り女などと会って挨拶くらいは良いが、それ以上の要らぬ話をしたり、相手の田舎言葉をむやみに笑ったりしてはいけない。
→ 今は大人、というより爺さんになったので、自制が効くようになったと思うが、まぁこればかりは昔も今も変わらんですな・・・
旅の道連れに関する用心
・旅の連れはせいぜい5,6人程度までが良い。大勢で長旅すると、うまくいかない人が出てくる。
・大酒のみ、癖のある人、癇癪の人、喘息持ち あるいは大変な持病を抱えている人と一緒に行かない方が良い。
→ その割に日本人は団体旅行が好きだ。 まぁ江戸の旅と違って、期間が短いから耐えらえるのかもしれない。
その他の用心
・用足しに行きたいのを我慢して、馬や駕籠に乗るのは決してしないこと。
→ 満員の通勤電車の中で、突然襲いくる腹痛は辛いものがある・・・
・道中で日食にあった時は休みをとり、日食が済んでから歩くこと。
→ 空を見上げて日食の観測をしたのだろうか? 日食メガネは??
道中用心61ヶ条から適当に抜粋したが、用心集なので現代にも通じるまともなことが書かれている。 日本人の礼儀正しさや他人への思いやりなどは、これらの本などから積み重ねられた文化かもしれない。
道中でのトラブル対処 そのノウハウ
「道中用心61ヶ条」は、不測事態を事前に回避するための心構えをまとめたものである。 しかし旅行中に想定されるトラブルや、実際にそれが起きてしまった場合の対処方法も書かれている。 この部分はまさにノウハウ、ハウツーであるが、「エッ!」と思わせるものがある。
船や駕籠などの乗り物酔いへの対処法
・船に酔い、ひどく吐いた後は喉が渇く。 その時は子供の便を飲ませる。 それが無ければ大人の尿を飲む。 誤って水を飲むと即死してしまう。
→ 死ッ 死んでもいいから水をくれ!!
・南天の葉を駕籠の中に立て、それを見ながら乗れば駕籠に酔うことは無い。
→ 南天のど飴じゃダメかな・・・
道中の疲れを治す秘伝
・茶屋で休む時、草履を脱ぎ縁台などに上がり、きちんと姿勢を正して休むと、不思議と疲れは取れる。
→ ”ぐだ~ぁ”っとしてたらダメなのね・・・
・疲れて足が痛む時は、風呂に入った後に、足裏に塩をたっぷりなすりつけて火であぶると良い。
→ アシの塩焼き!
・風呂に入った後。ひざ下3寸あたりから足の裏まで、焼酎を吹き付けると良い。手で塗ったのでは効かない。
→ きっと吹き付ける前にゴックンしてしまうな・・・
・長く歩いて土踏まずが腫れて痛む時は、みみずを泥つきのまますり潰して塗ると良い。
→ 泥付きで生きたまま靴の中に入れて歩けば良いのか?
寒い国を旅する時の心得
・雪の中を旅する時、大酒を飲んではいけない。 酔った勢いで歩き回り、方角を失い、深い溝や濠に落ちたりして凍え死ぬ人が多い。
→ 真冬の札幌出張の夜、酔い覚ましに地下鉄一駅分を歩いて帰り、途中で死ぬかと思った・・・
・雪の中を旅する時、紙衣、綿入れ、あるいは革製のものを下に着ると良い。
→ 仕事で徹夜して仮眠するとき、コンピュータの連続帳票用紙を体に巻きつけて寝たものだ。 寝返りするとガサゴソするが暖かい。
夏の暑いときに旅する時の心得
・夏は水を噛んで飲めば、水にあたることは無い。
・夏の道中で、笠の下に桃の葉をいれてかぶると、不思議に暑さを感じない。
→ これは試す価値がありそうだ。 しかし桃の葉をどうやって手に入れるかが問題だ!
山中でけものの類を近づけない方法
・先を割った竹杖で道を叩きながら、音を立てて歩く。
・狸や狐の仕業で道に迷うとか、急に暗くなるなど奇怪なことが起きたら、心を落ち着けてこれまで来た道を思い出せ。
→ そうか! あれはあいつらの仕業だったのか・・・
この「旅行用心集」は、これら旅のノウハウ以外に、雲行きや風などからの天気予報や、292箇所もの諸国の温泉とその効能、各街道の宿場間距離や人足、馬などの費用が書かれている。 まさに江戸時代の旅行ガイドである。
ネットはもちろん細かな地図も無い時代である。 少ない情報で旅をする苦労は多いと思うが、無事に帰宅した時にはすべてが楽しい思い出になるのだろう。 次は江戸の旅の実態について調べてみよう。