旅行日:2020年2月14日
毎年正月に行われる箱根駅伝。 横浜の鶴見から戸塚中継所までの約23Kmの区間は、参加チームのエースが走る「花の2区」と呼ばれている。 途中にダラダラと長く続く「権太坂」を駆け上がる難所があり、テレビ中継で必ず紹介されている。
この箱根駅伝で走る権太坂は国道であるが、この国道の少し北にある旧東海道の権太坂は、人が行き倒れるほどの難所だったという。
「よっしゃー! 行き倒れにならずに上がったる!」と、旧東海道の権太坂へ挑戦である。
日 付 | 区 間 | 里程表 | 計画路 | GPS | 万歩計 | |
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2020年 2月14日 |
神奈川宿~保土ヶ谷宿 | 1里9町 | 4.9Km | Map | GPS | 21,285歩 |
保土ヶ谷~戸塚宿 | 2里9町 | 8.8Km | ||||
合 計 | 3里18町 | 13.7Km | — | — | — | |
日本橋からの累計 (累計日数 : 3日目) |
10里18町 | 41.2Km | — | — | 80,124歩 |
里程表 : 「旅行用心集」(1810年刊行)の数値を採用。
計画路 : 現代の旧東海道ルート図で、歩く予定のコース。
「GarminConnect」を利用してGoogleMap上に作図。
GPS : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図。
青面金剛庚申塔
保土ヶ谷宿を出てしばらく歩くと、いくつかの石仏を見ることができた。 青面(しょうめん)金剛像を刻んだ庚申塔である。
青面金剛像は「青面金剛明王」とも呼ばれているので、不動明王とか愛染明王の仲間なのかと思い、少し調べてみた。 すると「インド由来の仏教尊像ではなく、 日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像」とWikipediaに説明されていた。
権太坂を上がる
現在の神奈川県内を通る旧東海道では、箱根の山道以外に、保土ヶ谷と戸塚間にある「権太坂」と、戸塚から藤沢間にある「大坂」が急勾配の難所であった。
権太坂を見上げる
旧東海道の権太坂入口付近から坂を見上げる。 道路改修工事が進んだ現在、難所とは思えない普通の坂であったが、箱根駅伝が走る国道の権太坂より勾配はきついそうだ。
坂の途中にある「旧東海道 改修記念碑」 改修のお陰で、息が上がるほどの急勾配ではなかった。
あぁ勘違い!「権太坂」の名の由来
江戸から京方面に向かう旅人が、最初に出会う難所が「権太坂」である。 「この坂は何という名前かね?」と、旅人に尋ねられた耳の遠い老人が、自分の名前を聞かれたと思い、「へい、ゴン太と申しますだ・・・」と答えたことが名の由来とのこと。
権太坂を上りきると眺めは良いが、この辺りで自転車に乗るには、電動チャリは必須だろう。
行き倒れを葬った投込み塚
権太坂を上がり、境木中学の所で街道とは反対の左に進むと「投込塚之跡」碑が立つ。 権太坂で行き倒れた人を投込む井戸があったと伝えられ、昭和30年代におびただしい人馬の骨が発掘されたそうだ。
往時の権太坂は馬車の荷を下ろさないと坂を登れず、ひとたび雨が降ればぬかるんで滑りやすくなったそうである。 早朝に江戸を出て40Km近く歩いてきた旅人は、疲れ果てて足の踏ん張りも効かずに滑落し、命を落とすものが出るほど難儀したという。
権太坂の名の由来はもう一つある。 それはこの付近の開発者であった「藤田権左衛門」という人の名から「権左坂」と呼ばれていたものが、「権太坂」へ転じたという説である。
武蔵国と相模国の国境へ
権太坂を上り少し進むと武蔵国と相模国との境の地である。 往時の旅人は難所を越えて安堵したかもしれないが、この先戸塚宿までは「焼餅坂」「品濃坂」と、急坂を下る難所が待ち受けていた。
境木立場跡
権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、富士山や江戸湾が望める境木の地に立場茶屋があったという。 見晴しも良く、茶屋で出す名物「牡丹餅」などで賑わったという。 雰囲気のある構えの家は、茶屋本陣であった若林家のようである。
境木地蔵
鎌倉の腰越海岸に流れ着いたお地蔵様が、江戸に運ばれる途中でこの場所が気に入り、動かなくなってしまった。 そのため お堂を建てて安置したと伝えられている。
お堂の天井を見ると、見事な「花天井」が描かれている。
武相国境之木
武蔵国と相模国の境にあり、昔は木の杭が建てられていたので「境木」という地名が付いた。 現在のモニュメントは平成17年に建てられたという。 左から来た街道はここで相模国に入り、左に曲がって正面の信号から焼餅坂を下っていく。
焼餅坂から品濃坂へと下る
武相国境を越えると、いきなり焼餅坂の下りである。 当時この坂の途中にある茶屋で焼餅を売っていたことが名の由来だそうだ。
品濃一里塚
焼餅坂の長い下りから上り返し、品濃一里塚の手前にひっそりと石仏がたたずむ。
日本橋から9里の品濃一里塚は、神奈川県内で唯一左右の塚が残る一里塚である。 鬱蒼と木が生い茂り、ただの藪山のようにしか見えない。
一里塚を過ぎると、街道は住宅街の細い道を進む。 正面はJR東戸塚駅前の高層マンション。
品濃坂を下る
街道は再び品濃坂の下りとなる。 途中で道から外れて階段を降り、環状2号線の上を陸橋で超え、更に下りは続く。
国道1号を戸塚宿へ
品濃坂を下れば、戸塚宿までは平坦な道を進むことになる。 昔の旅人たちは、難所を越えた安堵感を胸に、戸塚宿に向けて最後の力を振り絞って歩いたことだろう。
消えた益田家のモチノキ
街道沿いの「益田家」所有の土地に、2本のモチノキという大木があったそうだ。 旅人の良い目印になったことと思うが、近年開発業者が工事の邪魔ということで、大きく伐採の刃を入れてしまった。 そのためモチノキは枯れてしまい、今は見る影もなくなっていた。
大山道道標
伐採されたモチノキ跡の反対側に、小さな祠を持つ「大山道道標」がある。 これから進む旧東海道では、この「大山道道標」を数多く見ることになる。
東京から富士山を見るとき、富士山の手前に連なる丹沢山塊の一番左側、きれいな三角形をしている山が「大山」である。 江戸時代から庶民の信仰を集め、大山詣でが盛んに行われ、関東各地から参拝のための大山道が通じていたので、道標も各地に残っている。
鎌倉ハム発祥の地
街道脇に、古いレンガ造りの倉庫があった。 地図を見ると「鎌倉ハム倉庫」とある。 どうも「鎌倉ハム」の発祥の地のようだ。 鎌倉とはだいぶ離れているが・・・
戸塚宿に入る
戸塚宿 江戸方見附跡と戸塚一里塚跡
いよいよ戸塚宿の入口に到着である。 往時の見附跡には立派な石碑が建てられている。
日本橋から10里の「戸塚一里塚跡」を示す標柱が立つ。 残念ながら一里塚は影も形もない。
戸塚駅入口
JR戸塚駅への入口に到着。 戸塚宿の中心部はさらに先であるが、今回の横浜からの日帰り旅はここで終了として、東海道線で帰路についた。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では、江戸を発った主人公の弥次喜多コンビの初日は戸塚宿である。 往時の旅人が、江戸から戸塚までの40Kmを1日で歩いたというのは、まんざら誇張ではないようである。
「お江戸日本橋七ツ立ち」の「七ツ」とは何時なのか? 江戸時代は不定時法なので、現代の何時と決めることは難しいそうだが、「明け六ツ」より早い、夜明け前だったようである。 まだ薄暗いときに出発し、脇目も振らずにせっせと歩いたのだろう。
私の場合は横浜から戸塚までの、わずか14Kmほどの距離に4時間半も掛かり、日本橋からの累計は3日目である。 「軟弱」という言葉では表現しきれないひ弱さである・・・