「リアル三国志」と銘打って、上野・東博で開催中の「三国志展」を訪れた。
「三国志」とは中国の後漢末期に、魏・呉・蜀の三国が覇権を争った三国時代(180年~280年頃)の歴史書である。
この「三国志」の中心人物の一人である「曹操」の墓が、中国・河南省安陽市で2008年に発見された。 今回の「三国志展」は、この曹操の墓陵から発掘された埋葬品をはじめ、三国志に関る文物が出展されている。 三国志ファンにとっては、見逃せない美術展である。
写真撮り放題の美術展
今回の「三国志展」は、すべての展示品の写真撮影が許可されている。 もちろんフラッシュや三脚使用は認められていない。 また大型モニターで流される映像の撮影は禁止である。
写真撮影が自由だと、展示品とその説明板も写真に撮っておけるので、後から大変役に立つ。 嬉しいサービスであった。
横山光輝やNHK人形劇も・・・
中国の出土品だけでなく、日本で制作された三国志関連の品も展示されていた。
横山光輝の漫画「三国志」の原画
全60巻もの長大な漫画で描いた三国志。 この原画が三国志展の各コーナーに展示されていた。 昔読んだことがあるが、懐かしい漫画である。
NHK 人形劇「三国志」からも出品
1982年からNHKで放映された「人形劇 三国志」。 この人形劇で使用された、人形作家・川本喜八郎作の人形たちも出品されている。
【 曹操(左)と孫権(右)】
【 劉備(左)と孔明(右)】
三国志の登場人物の中で、呉の周瑜が最も好きであるが、残念ながら周瑜の人形は出ていなかった。
関羽と張飛
関羽と張飛は人並み外れた武勇の持ち主で、桃園で劉備玄徳と義兄弟の契りを結んだ。 三国志の中でも主役に近い存在である。
三顧の礼
劉備が三顧の礼をもって孔明を迎える様子を描いている。
劉備と孔明が仲良く話している様子を、前を行く関羽と張飛が「何を話しているのか?」と振り返り、劉備と関羽・張飛の仲を裂くように松の木が描かれている・・・とBS日テレの「ぶらぶら美術館」で山田五郎が解説していた。
関羽に謝る張飛(19世紀 清時代作 土製)
敵の曹操の下にいた関羽が劉備の所に戻った時、敵に寝返ったと勘違いした張飛が怒りを露わにした。 しかし誤解であったことが判明し、関羽に謝る張飛の姿である。
関羽象(15~16世紀 明時代 青銅製)
死後に関帝として神格化され、横浜の中華街などで、商売の神様として関帝廟に祀られた関羽。 武将から商売の神様への変身は面白い。
それにしても、実に勇猛果敢で恐ろしげな武将の姿である。 まるでゲームの世界から抜け出してきたようだ。
曹操
三国誌の中で、「魏」という国の基を築いた曹操。 小説の中では悪役として描かれているが、実際には詩を作り、現代に残る兵法書の「孫子」は曹操が編纂したものと云われている。
曹操の筆と伝わる「袞雪」拓本(原本:後漢時代 3世紀)
由来の説明はあったが、良くわからなかった。 左の方に「魏王」とある。
曹操の墓陵特定の決定材料「石牌」(3世紀 後漢~三国時代(魏))
長さ10センチほどの石牌。 表面には「魏の武王(曹操)愛用の、虎をも倒す大戟」と刻まれている。
これが出土したことにより、曹操の墓陵であることの決定打となったそうだ。
こんな時代に白磁が!「罐」(3世紀 後漢~三国時代(魏))
説明板には「罐(かん)」と書かれていたが、白磁の壺である。 これも曹操の墓陵から出土したそうだが、陶磁器の歴史を塗り替えるかもしれない。
「曹休」の印(3世紀 三国時代)
曹操が我が子のように重用し、曹操の跡を継いだ曹丕の元でも大いに活躍した武将。 この「曹休」の2文字の陰影を持つ印が曹休の墓から出土した。
三国志の登場人物の確かな印章はこれだけだそうだ。
その他出土した文物
五層穀倉楼(2世紀 後漢時代 土製)
2階までが穀倉で、3階以上は物見櫓だそうだ。
これが出土した地域は、後漢最後の皇帝・献帝が、220年に魏の曹丕に禅譲した後に余生を送った場所だそうだ。
三連穀倉楼(2世紀 後漢時代 土製)
サイロのような穀倉が並び、その上に建物が載っている。 現代と同じようなサイロがこの時代からあったことは面白い。
揺銭樹台座(3世紀 後漢~三国時代(蜀) 土製)
蜀の墓から出土。 富裕層の墓に置いた「金のなる木(揺銭樹)」の台座で、墓への侵入者を威嚇するとともに、墓主を天上に導く役割を持っているそうだ。
弩(3世紀 三国時代(魏))
現代のボウガンとかクロスボウと呼ばれている弓と同じようなもので、秦の始皇帝の兵馬俑からも出土している。 かなり昔からあったようだ。
弓に比べて飛距離と貫通力に優れた、恐ろしい武器である。
撒菱(3世紀 後漢~三国時代 青銅製)
日本の忍者が使うものだと思っていたが、中国伝来とは知らなかった。
隘路や渡河できる川の浅瀬に撒いて、敵の行軍を妨げることに使われたそうだ。
熨漏・炭炉(3世紀 三国時代(呉) 青銅製 朱然墓出土)
熨漏(うっと)は加熱して服などのシワを伸ばす道具で、炭をくべる炭炉(たんろ)と併せてアイロンのように使ったそうだ。
朱然は蜀の関羽を捕える大功を挙げた呉の武将である。 この朱然の墓から出土したので、朱然の身なりを整える時に使われたものだろう。
堤梁壺(2世紀 後漢時代 青銅製)
「ていりょうこ」と読むそうだ。 殷の時代の青銅器とも違って、美しいスタイルをした壺である。
金製獣文帯金具(2世紀 後漢時代 金製)
帯に付ける豪華な金具で、今でいうベルトのバックルのようなものか? 細かな細工で、とても2世紀という時代に作られたとは思えない。
墓門(2世紀 後漢時代 石製)
大型のお墓には、地下の墓室と墓道との間に墓門を設けたそうだ。
左右の扉には、楯と箒を持つ男性が描かれている。 中国では貴人を迎えるとき、敬意を表して箒を持つことがあったというが、何故箒なのか?
三国時代の終焉
三国の中で最初に蜀が滅び、その2年後には魏の最後の皇帝を退位させて、司馬氏が率いる普が建国された。 この普が最後まで残った呉を280年に滅ぼし、ここに三国志の歴史は幕を閉じたのである。
「晋平呉天下大平」磚(280年 西普時代)
「磚(せん)」とは粘土を型で固めて焼いたレンガのことだそうだ。
このレンガの側面に、「普が呉を平らげ、天下泰平となった」と記され、三国時代の終焉を伝えているという。
三国時代の頃の日本は
中学か高校の歴史教科書で、「魏志倭人伝」という書物の名を習った人は多いと思う。 この「魏志倭人伝」の「魏」は、三国志における曹操の国「魏」である。
この魏志倭人伝には、238年に邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を送り、「金印」や「銅鏡」100枚を下賜されたと記録されていることは有名である。
では当時の日本はどうだったのだろう? まだ弥生時代の後半で、邪馬台国の時代である。 登呂遺跡や吉野ヶ里の遺跡にあるように、人々は主に竪穴住居に住み、貫頭衣を着て生活をしていた。
中国から見ると、日本は辺境の地にある国として映ったことだろう。
そして中国では倭国からの使者の来訪が記録されているが、日本では使者を送った邪馬台国の場所すらわからない・・・
また三国志の時代に活躍した人の墓まで発見されているのに、邪馬台国では卑弥呼以外の人物名は聞いたことがない。 このギャップは一体何なのだろう???
本当に中国の歴史は凄い! そして面白い。 発掘が進めば何が出てくるのか? 楽しみである。