旅行日:2014年9月15日
日本橋を出発して、最初の宿場であった板橋宿へ歩き始める。 江戸時代には、中山道に旅立つ人をこの宿場まで見送って別れの盃を交わし、旅から戻った人をここで出迎えたという。
私はこの板橋宿のすぐ近くで生まれ、中学3年の夏まで住んでいた。 当時は地元の歴史などに興味もなかったが、旧中山道は「旧道」と呼ばれ、「縁切り榎」なども覚えている。 子供の頃を思い出しながら、大変懐かしく歩いた区間であった。
日 付 | 区 間 | 里程表 | 実距離 | 万歩計 | ルート | ||
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2014年 9月15日 |
日本橋から板橋宿 | 2里18町 | 9.8Km | 11.1KM | 25,463歩 | Map | |
合 計 | 2里18町 | 9.8Km | 11.1Km | 25,463歩 | |||
日本橋からの累計 (累計日数 : 1日目) |
2里18町 | 9.8Km | 11.1Km | 25,463歩 |
里程表 : 別冊歴史読本「図説 中山道歴史読本」より。
実距離 : 各区間のコース計画時、ルートラボを利用して計測した距離。
(ルートラボ → ルートを見る → “のんびり中山道”で検索)
神田から外神田へ
【町名由来版】
神田にふさわしい祭半纏を着た、鍛治町三丁目の小粋な町名由来板。
【筋違橋門跡】
江戸城三十六見附の一つである筋違橋門跡を見ながら進む。
右のレンガ壁はJR中央線の高架。 旧万世橋駅付近である。
【昌平橋からの眺め】
御茶ノ水方向を見ると、JR中央・総武線、地下鉄丸ノ内線が交わる。
遠くに聖橋の綺麗なアーチが見える。
【湯島聖堂】
幕府の昌平坂学問所跡である湯島聖堂。 厳かな雰囲気が漂う。
【神田明神と甘酒の「天野屋」】
天野屋の地下にある土室(むろ)で作られる糀は、NHKのブラタモリで紹介。
旧中山道は天乃屋横の細い路地を入り、ほんの50mほどで本郷通りに戻る。
本郷界隈
【かねやす】
「本郷もかねやすまでは江戸の内」という川柳で有名な「かねやす」
元禄年間に歯磨き粉を売っていた。 ここまでが江戸市中に相当した。
【本郷薬師】
提灯が飾られた山門?の奥に、赤く小さなお堂が見える。
【別れの橋跡と見返り坂、見送り坂】
【別れの橋跡と見返り坂、見送り坂】
本郷三丁目から東大の赤門にかけては緩い上り坂である。 昔は加賀前田藩の上屋敷(現東大構内)から小川が流れ、この中山道には橋が架かっていたそうだ。江戸を追放された者はこの橋で放たれ、見送りの親類縁者は南側の坂(本郷三丁目側)で涙ながらに見送り、追放された者は江戸を振り返りながら去って行ったことが名の由縁と、案内板に説明されていた。
【東大・赤門と三四郎池】
加賀藩主前田斉泰が、将軍徳川家斉の娘「溶姫」を正室に迎えた時に建立。
三四郎池の池端に降りると、周囲の建物は木々の陰に隠れ、静寂に包まれる。
白山へ
【本郷追分】
将軍が日光東照宮に参拝する、日光御成道(岩槻街道)と中山道の分岐。
交差点角には、江戸時代から続く高崎屋酒店と、追分一里塚の説明板が立つ。
【八百屋お七の墓】
中山道から左の円乗寺に行くと、八百屋お七の墓がある。
【ほうろく地蔵尊】
街道右手の大円寺には、火あぶりの刑を受けたお七を供養の為、
ほうろく(土鍋)が多数奉納されている。
【八百屋お七】
お七は駒込片町の八百屋の娘で、天和の大火でお七の家も焼けた。 その為 菩提寺の円乗寺に避難中、寺の小姓「吉三郎」と恋仲になってしまった。 やがて家は再建されて自宅に戻るが、お七は吉三郎逢いたさで付け火をしてしまう。お七は放火の罪により鈴が森刑場で火あぶりの刑に処せられた。 僅か16歳であった。
巣 鴨
【江戸の祭り】
巣鴨に着くとお祭りの最中であった。 江戸の神輿は華やかで良い。
【おばあちゃんの原宿】
巣鴨のお地蔵さん本家は、真生寺のお地蔵さん。 江戸六地蔵の一つである。
【とげぬき地蔵】
正式名称は高岩寺。 多くの人が煙を頭などに一生懸命浴びていた。
【庚申塚】
江戸時代には立場(休憩所)として大いに賑わった場所だそうだ。
【有名人のお墓が並ぶ】
庚申塚で街道を右に曲がり、国道17号を越えて妙行寺へ向かう。
忠臣蔵の浅野内匠頭正室・瑤泉院の供養塔(右)と四谷怪談のお岩さんの墓(左)
【都電荒川線】
街道に戻り、都内で唯一残された都電荒川線の線路を越える。
【近藤勇の墓】
JR埼京線・板橋駅前に、板橋の刑場で斬首された近藤勇の墓がある。
生き残った永倉新八が、土方歳三の名と一緒に石碑を立てた。
板橋宿へ
板橋宿は日本橋側から平尾宿、仲宿、上宿の3つに分かれていた。
【地名の由来】
石神井川には、太鼓状の板の橋が架かっていたそうだ。 だから板橋・・・
板橋宿に昔の面影は殆んど無いが、歴史を感じる商家が一軒残る。
【縁切り榎】
縁が短くなることを恐れ、嫁入りの際には 下を通らなかったそうだ。
私が生まれ育った場所は、この板橋宿と現在の国道17号を挟んだ反対側である。
仲宿や上宿あたりも行動範囲に含まれていたが、周りの景色はすっかり変わっていた。 まぁこの地を離れて50年以上経つので、無理もない話である。 しかし地名は懐かしい響きを持って迎えてくれた。
縁切榎から旧道を歩き続け、環七を越えて都営地下鉄の「本蓮沼」から帰路についた。