中山道

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信 濃(信州)

中山道 第18宿 軽井沢宿(1) 紅葉の碓氷峠を越えて

いよいよ関東平野に別れを告げ、碓氷峠への上りにかかる。標高差は500mほどというが、わらじで歩いた江戸時代の旅人と異なり、しっかりとした靴で、紅葉真っ盛りの道を楽しみながら歩くことができた。碓氷峠の上に立てば、いよいよ信濃の国である。
上 野(上州)

中山道 第17宿 坂本宿 「峠の釜めし」と碓井関所跡

妙義山の山容を眺めながら歩くと、やがて信越線の終着となった横川に到着である。横川といえば荻野屋の「峠の釜めし」。釜めしで腹を満たして旅を再開すると、すぐに「碓氷関所跡」が現れる。「入り鉄砲に出女」といわれるように、厳しい検問が行われていた。
上 野(上州)

中山道 第16宿 松井田宿 侍たちのマラソン大会 安政遠足

慶長7年に碓氷峠越えの道が中山道として制定されると、松井田に宿が開かれた。1855年(安政2年)、安中藩は藩士鍛錬のため、安中城から碓氷峠の熊野権現神社までを走らせた。「安政遠足(とおあし)」と呼ばれ、日本のマラソン発祥ともいわれている。
上 野(上州)

中山道 第15宿 安中宿 安中藩士の住居が残る大名小路

安中城の城下町として発展した安中宿。「大名小路」と呼ばれる道沿いには、旧碓氷郡役所、旧安中藩郡奉行役宅や武家長屋などが復元されている。新島襄は安中藩士の子として生まれたが、実際には江戸屋敷で生まれ育ったそうだ。
上 野(上州)

中山道 第14宿 板鼻宿 達磨寺で高崎だるまを買う

板鼻宿は、中山道上州七宿の中で最大級の宿場で、飯盛り女を抱えた旅篭が54軒もあって繁盛した。しかし今はその面影は少ない。高崎宿からの途中にある、”高崎だるま”で有名な達磨寺へ寄道。お土産の達磨に、命を吹き込むお経を唱えてもらった。
上 野(上州)

中山道 第13宿 高崎宿 本陣も脇本陣もなかった宿場

中山道と三国街道との分岐点でもあり、交通の要衝として栄えた高崎宿。しかし井伊直政が築いた高崎城の城下町でもあったので、参勤交代の諸大名たちは宿泊を敬遠したようで、本陣も脇本陣も設けられなかった。
上 野(上州)

中山道 第12宿 倉賀野宿 日光例幣使街道との追分

倉賀野宿は、日光に向かう例幣使街道との分岐点である。例幣使とは、朝廷が日光東照宮に「幣帛」を毎年奉納するために遣わした使節である。「強請(ゆすり」という言葉があるが、これは例幣使が駕籠をゆさぶり、担ぎ手に袖の下を求めたことが語源という。
上 野(上州)

中山道 第11宿 新町宿 滝川一益と神流川古戦場跡

神流川を渡って群馬県に入ると、秩父や遠く浅間山、妙義山などの山々が近づいてくる。埼玉と群馬の境を流れる神流川は、織田信長四天王の一人・滝川一益と北条氏直が激突した戦場跡で、敗れた滝川一益は清州会議にも遅れ、織田家での地位は失墜した。
武 蔵(武州)

中山道 第10宿 本庄宿 中山道最大規模の宿場

武蔵国最期の宿場であった本庄宿は利根川の水運で栄え、中山道大規模を誇った宿場である。現在は上越新幹線の本荘早稲田駅があるが、駅前は緑豊かで閑散とし、この駅に停車する新幹線に乗ると「しまった!」と思ってしまう。
武 蔵(武州)

中山道 第9宿 深谷宿 渋沢栄一と赤レンガ

深谷といえば「深谷ネギ」だと思っていたが、実はレンガの街だそうだ。明治期の渋沢栄一が設立した日本煉瓦製造で造られたレンガが、東京駅や多くの近代建築に使われたそうだ。そのため、JR深谷駅も「東京駅風」の外観を持っている。
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