のんびり中山道

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信 濃(信州)

中山道 第23宿 塩名田宿 千曲川に残る舟つなぎ石

岩村田宿を抜けると、水田が広がり街道風情も増してきた佐久平を、八ヶ岳などを眺めながら気分よく歩くことができる。やがて塩名田宿に入ると、昔の屋号を掲げた家並が続き、千曲川の河原に向かって下る「お滝通り」は、往時を偲ばせる雰囲気が保たれている。
信 濃(信州)

中山道 第22宿 岩村田宿 武田信玄の遺骨発見!

宿場町の面影は無いが、商店街アーケードに掛かる西念寺の大きな数珠が印象的である。また龍雲寺から武田信玄の遺骨、短刀、袈裟を納めた茶釜が発掘されたというが、あまり知られていないようだ。また何故か史跡には指定されていない。
信 濃(信州)

中山道 第21宿 小田井宿 「姫の宿」とも呼ばれる

隣が追分宿であるため、大名などの宿泊は少なかったそうだ。そのため宿場の規模は小さいが、飯盛女が多くいる追分宿を嫌った大名夫人や姫君など、多くの女性がこの小田井宿に宿泊したので、「姫の宿」とも呼ばれている。
信 濃(信州)

中山道 第20宿 追分宿 北国街道との分去れ

中山道と北国街道との分岐宿として栄えた追分宿。最盛期には200~270人もの飯盛女を抱えるほど賑やかだった。この飯盛女達の情を歌ったといわれているのが「追分節」で、日本各地で歌い継がれる追分節の発祥の地だそうだ。
信 濃(信州)

中山道 第19宿 沓掛宿 「沓掛の時次郎」は架空の人物

沓掛宿は、両隣にある軽井沢宿、追分宿と共に、浅間三宿として栄えたが、1951年の大火により殆んどを焼失。往時の面影を伝えるものは無い。「沓掛の時次郎」は実在の人物だと思っていたが、じつは戯曲の主人公であることを初めて知った。
信 濃(信州)

中山道 第18宿 軽井沢宿(2) 宿場の面影は何処へ・・・

碓氷峠を控えた軽井沢宿は街道屈指の繁栄を誇り、飯盛女も多数抱えていたそうだ。しかし現在は宿場町の面影も消え失せ、夏の軽井沢銀座は東京と変わぬ賑わいである。お洒落な旧軽商店街を足早に抜けて、沓掛宿を目指す。
信 濃(信州)

中山道 第18宿 軽井沢宿(1) 紅葉の碓氷峠を越えて

いよいよ関東平野に別れを告げ、碓氷峠への上りにかかる。標高差は500mほどというが、わらじで歩いた江戸時代の旅人と異なり、しっかりとした靴で、紅葉真っ盛りの道を楽しみながら歩くことができた。碓氷峠の上に立てば、いよいよ信濃の国である。
上 野(上州)

中山道 第17宿 坂本宿 「峠の釜めし」と碓井関所跡

妙義山の山容を眺めながら歩くと、やがて信越線の終着となった横川に到着である。横川といえば荻野屋の「峠の釜めし」。釜めしで腹を満たして旅を再開すると、すぐに「碓氷関所跡」が現れる。「入り鉄砲に出女」といわれるように、厳しい検問が行われていた。
上 野(上州)

中山道 第16宿 松井田宿 侍たちのマラソン大会 安政遠足

慶長7年に碓氷峠越えの道が中山道として制定されると、松井田に宿が開かれた。1855年(安政2年)、安中藩は藩士鍛錬のため、安中城から碓氷峠の熊野権現神社までを走らせた。「安政遠足(とおあし)」と呼ばれ、日本のマラソン発祥ともいわれている。
上 野(上州)

中山道 第15宿 安中宿 安中藩士の住居が残る大名小路

安中城の城下町として発展した安中宿。「大名小路」と呼ばれる道沿いには、旧碓氷郡役所、旧安中藩郡奉行役宅や武家長屋などが復元されている。新島襄は安中藩士の子として生まれたが、実際には江戸屋敷で生まれ育ったそうだ。
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