江戸の旅 旅籠と飯盛女の相場はいくら?

旧街道を歩くにあたり様々な下調べを行うが、この下調べが良い勉強になる一方、江戸時代の旅に関して多くの疑問や興味も湧いてくる。 伊勢参りや東海道中膝栗毛にあるような、庶民の旅の生活はどうであったのか? 費用は? 食事は?

特に興味を惹かれたのは「飯盛女」の存在である。 まぁ男だからこの様なものに興味を持つのは健康のあかしと許して頂いて、江戸の旅に関して判った範囲でまとめてみた。

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出発前の準備 往来手形と関所手形

江戸時代に旅に出るには、関所を通過する為の「手形」が必要であった。 この手形には「往来手形」と「関所手形」というものがあった。

往来手形

諸国の番所や関所の通行許可書として、必ず携帯しなければいけない手形で、いわゆる通行手形である。 身分証明書を兼ねたパスポートのようなもので、名主(庄屋)や菩提寺が発行。 内容的には旅行者の身元保証や、道中で行き倒れたときの処置の依頼などが記されていたという。

関所手形

箱根・新居・木曽福島・碓氷といった、検査が厳しい関所を通る時に携帯していなければならない手形である。 男は原則不要だが、取調べの煩わしさを避けるため携行することも多かったようだが、グループで一通あれば良かった。 しかし女の場合は「関所女手形」という手形が必須で、女の関所通過時の取り調べは厳しかった。

旅への出発

手形などの準備も整い、いよいよ旅への出立である。 しかし江戸時代には電話はもちろん、郵便制度も未発達で飛脚程度しかなかった。 従って、庶民が旅に出立すると、帰宅するまでほとんど音信不通の状態だったと思われる。 その為、旅に出立する前は親類縁者と水盃を交わし、「生きて帰れないかもしれない・・・」という覚悟をして旅立ったようである。

大きな不安を抱いての旅への出発と思うが、一方で日常からの解放感と、眩しいほどの未知の世界への期待に満ちていた筈である。 現代の私たちが、海外旅行に行く時のわくわく感と同じである。

街道の様子

道路の状況

一里塚をもうけ、関西は主に松、関東は榎を植えていたが、ヨーロッパのように石畳は発達せず、雨が降ればかなりぬかるんだようである。 箱根の石畳は、当初竹を編んで敷き詰めてぬかるみを防いだが、耐久性を考えて石畳に変えられた。

また夏には木陰を作り、冬の風を防ぐ松並木の整備も幕府により行われた。

街道に巣くう ならず者

現代に残る旧街道を歩くと、実にのどかな旅を楽しむことができる。 しかし江戸時代は街道を根城としたごろつきが多く、その代表格が雲助とゴマノハエである。

雲助は平素は問屋場の裏で酒と賭博に明け暮れ、旅人に因縁をつけて酒手の強要や追剥を働いた。 ゴマノハエは旅人をだまして金品を巻き上げる輩のことで、元禄時代に高野聖のいでたちで弘法大師の護摩の灰と偽り、押し売りをしていた者たちを「護摩の灰」と呼んだことが語源だそうだ。

関所での女改め

江戸幕府は全国で53箇所の関所を設け、なかでも重きを置いたのが、東海道の箱根と新居、中山道の碓井と木曽福島である。  関所が厳重にチェックしたのは入り鉄砲に出女。つまり鉄砲は江戸で反乱が起きるのを防ぐため、出女は人質として江戸在住を強制されている大名の奥方が、国許への逃亡を防ぐためである。

出女の監視は厳しく、「改め婆(人見女)」と呼ばれる女性が、女手形に記された人相、体型、髪型と合致しているかを調べ、髪をといて密書の有無の検査、更に怪しいと思えば性のチェックまで行ったそうだ。

事実、若衆姿に変装した娘が、股間を調べられて化けの皮をはがされたことがあったそうである。 ということは、若くてぽっちゃりした男やイケメンは、きっと股間を調べられたことだろう。

日暮れの旅籠屋入り

江戸時代の庶民の宿には、朝夕の食事を提供する旅籠と、宿泊客が薪代を払って自炊する木賃宿があった。 当時は宿泊予約などなかったので、路上で客引き女(留女)が旅人を強引に引き込む客引きが盛んであった。

足を洗って部屋に上がる

旅籠に入って第一にすることは、足を洗うことであった。 女中が足すすぎのたらいに湯をくんできて、足と脚絆(きやはん)を洗って座敷へ上がって行った。

映画やテレビにあるように、色気あるうなじを眺めながら、女中さんが優しく足を洗ってくれた訳ではないようだ。

旅籠の部屋

客がたてこめば見知らぬものと相部屋、隣室とは唐紙1枚。 これは現代の山小屋と似たようなものである。 しかし物売りや按摩が図々しく入り込んだり、コソ泥やゴマノハイも横行していたようだ。

冬にこたつはあっても火の気はない。 風呂に入ると、底の方に砂があってざらざらしており、薄暗くてよく判らないが、湯も使い古しのどろどろしていたとか・・・

旅籠の食事

旅籠では粗末ながら朝晩の食事が出た。 夕食は、飯・汁・香の物のほか、皿に焼魚か煮魚、平椀(ひらわん)に野菜類の煮物が標準的な献立であった。 そして朝は「お江戸日本橋七ツ立ち」とあるように、午前4時には宿を出立するのが通常だったので、飯も味噌汁も茶も、喉が焼けるように熱くして、2杯とお代わりさせずに出立をせかしたという話もある。

文化10年(1813)に大阪商人・升屋の日記に、下諏訪宿の献立が記録されている。 これによると、夕飯は汁(豆腐・菜)、平付(芋・菜・湯豆腐)、焼き物(にびたし鮒)。 朝食は汁(角豆腐)、平付(八杯豆腐・うど・海苔)、焼き物(川すき)とあるそうだ。

旅籠の夜の生活

飯盛女は宿場の目玉商品。 娼婦だが公娼として認められてはいなかった。 しかしこの飯盛女がいなければ旅籠に客は来ないし、旅籠として成り行かなかったようである。

飯盛女と留女

留女とは旅人を引き留めて店に誘い込む女の事だが、飯盛女はこの留女の役も果たした。

夕刻の旅人到着時刻になると、飯盛女による強引な客引き合戦が繰り広げられ、誘い込むどころか引きずり込んでいたようである。 まさに飯盛女は旅籠の尖兵であった。

飯盛女の裏の役割

飯盛女は客の給仕をする名目で雇われているが、幕府が万治3年に旅籠に遊女を置くことを禁止すると、飯盛女が着飾って客の接待から夜伽までするようになり、旅人の無聊を慰めた。

飯盛女は1軒に2人までと元文5年(1740)に規制されたが、実際は守られなかったようで、品川の宿場は規定の3倍近い1348人もいた。 中山道では軽井沢、沓掛、追分が有名で、川柳で軽井沢といえば飯盛女のことをいうそうで、今の軽井沢とは相当イメージが違うようだ。

旅籠と飯盛女の相場はいくらか?

さて、いよいよこのページの本題。 旅籠の宿泊費や飯盛女と一夜を過ごすにはいくらかかったかである。

江戸時代と現在では世の中の仕組みや暮らしが異なり、また貨幣制度や物価も違うので、現在の通貨に単純には換算できない。 しかし江戸の通貨で考えてもピンとこないので、前提として現代の価格への換算を試みてみよう。

江戸時代の1両は今のいくらか?

日銀の貨幣博物館が作成した、「江戸時代の1両は今のいくら?」という資料がある。 江戸時代は260年もの長期にわたり、金貨・銀貨・銭貨といった貨幣制度などから、「簡単には言えません」という答えである。

しかしお米や蕎麦の価格、大工の賃金を使用して目安金額の算定方法が紹介されているので、お米と蕎麦の価格を使って、江戸の1両を現在価格に換算してみよう。

【 お米の場合 】

・江戸時代の米の価格 米1石(約150Kg) = 1両(18世紀頃)
・現在の米5Kgの価格  2,113円(2017年末 総務省統計局小売物価統計調査)
・米150Kgの価格は  2,113円÷5Kg × 150Kg = 63,390円

【 蕎麦の場合 】

・江戸時代の蕎麦の値段 1杯16文(江戸中~後期)とすると

1両=6,500文として406杯の蕎麦が食べられる。

・現在の駅の立食いそばを1杯300円(かけそば/うどん)とすると

406杯 x 300円 = 121,800円

江戸後期は1両が6,500文という換算だそうで、1文の金額を計算すると

・お米の場合 1両 63,390円 ÷ 6,500文 = 9.75円

・蕎麦の場合 1両 121,800円 ÷ 6,500文 = 18.74円

お米と蕎麦では倍近い差があるが、これからの計算は、蕎麦で換算した1文=19円を前提とする。

飯盛女と一夜を過ごすには?

岩波新書の「江戸の旅(今野信雄著)」によると、夜伽の値段は客と飯盛女の間で決め、その代金も直接飯盛女に渡されていたそうだ。 そして安政期の東海道の大きな宿場の揚代は500文~700文(9,500~13,300円)、中規模の宿場では300文(5.700円)くらいで、他に酒1本と肴1品程度の酒肴代が400文(7,600円)、番頭や仲居へのご祝儀が200文(3,800円)くらいだったと記されている。 ちなみに東海道中膝栗毛では、飯盛女は200文(3,800円)とあるそうだ。

揚代より酒肴代が高いのがおもしろい。 中規模の旅籠の宿泊費が200文(3,800円)前後のようなので、1泊2食 お酒1本と飯盛女付で20,900円である。 お米の換算レート(1両=9.75円=10円)を使用すると、11,000円である。

現在で考えれば安いと言えるが、朝4時に起きて1日30~40Kmを歩かなければいけない。 私の場合、たとえ財布の中は豊かであっても、旅の夜毎に遊ぶだけの体力は持ち合わせてはいない。

実際は悲哀に満ちた生活だった

興味本位で書いてしまったが、実際は悲哀に満ちた生活だったはずである。 誰も好き好んで苦界に身を沈める者はいない。 多くは貧しい農村に生まれ、親の借金のかたなどで身売りされた女たちである。

当時の百姓や下層に生きる者たちの窮乏ぶりは想像以上だったのだろう。 「一緒に暮らしても飢えて死ぬだけ。 可愛い弟や妹のために涙を飲んで・・・」と自分に言い聞かせるより他になかったのだろう。

街道沿いのお寺には、無名の女郎や飯盛女の供養塔を見かけることが多い。 病死だけでなく、首をくくったり身を投げるなどの自殺も多かったようだが、死んでも身柄の引き取り手は現れず、投げ込み寺に投げ込まれることが多かった。

宿場の繁盛の裏には、過酷な運命をたどった飯盛女たちの支えがあったと云えるのだろう。

【 参考文献 】
・「江戸の旅」(今野信雄 著) 岩波書店発行
・「浮世絵に見る江戸の旅」 ふくろうの本発行


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