— 江戸城本丸を歩く —

大手門
登城する大名達が中雀門を抜けると、いよいよ江戸城の核心・幕府の中枢である本丸に入る。

江戸城本丸は、表・中奥・大奥の三つの区域に分かれた本丸御殿が広がり、その奥に天守閣があった。

表 : 幕府の中央官庁にあたり、儀式や謁見、役人達がが執務を行なう場
中奥: 将軍の公邸にあたり、将軍の起居や政務を司る場
大奥: 将軍の私邸に相当し、御台所(正室)や奥女中たちが生活していた

この本丸御殿は、残念ながら現在は芝生広場へと変わり、残された天守台の上から広大な芝生広場を眺め、往時の面影を偲ぶのみである。

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刀はお預け そしてお供はいなくなる

本丸御殿の玄関に達した大名は、ここで刀番に刀を預けなければいけなかった。 この刀番は大名の家来で、殿が戻るまで控えの間、または玄関の外で待っていた。

玄関から先は大名一人となり、殿中の表坊主の案内に従って、それぞれの控の間に入って行った。 刀を預けて丸腰になったようだが、忠臣蔵の「浅野内匠頭」を見ると、小刀は許されていたようである。

富士見櫓

現在の芝生広場を時計周りに歩くと、最初に現れる遺構が「富士見櫓」である。

太田道潅が最初に城を築いた時、「精勝軒」と呼ばれた櫓を作り、富士山や海の眺望を楽しんだと云われる。  富士見櫓はその跡地に作られた三重の櫓で、万治2年(1659年)に再建されたものが今に残っている。

明暦の大火(1667)で焼失した天守に代わって使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたとも云われている。

富士見櫓

松の廊下跡

本丸御殿の大広間から、将軍との対面の場である白書院を繋ぐ、幅4mほどの畳敷きの大廊下。 元禄14年(1701)3月14日、勅使御馳走役・浅野内匠頭が、抜刀禁止の城内・松の廊下にて吉良上野介に斬りつけたことは余りにも有名である。

内匠頭の用いたのは小刀、上野介の切り傷は背中と額のわずか二カ所、それもごく浅いものであったという。

後年、乃木大将が「武人ノ志シナシ、ナゼツカヌカ、斬ルトハグレツ」と言明したそうだ。 小刀で人を殺そうと思うなら、刀を敵に突き刺さねば効果がないということは、武士として当然の心得だったからである。

松の廊下跡

刃傷事件の後、浅野内匠頭は即刻切腹、浅野家も断絶したが、殿中をひたすら逃げた吉良上野介は、場所柄をわきまえて抵抗しなかったとして咎めを免れた。 そしてその翌年12月・・・ と、話は続くのである。

富士見多聞

多聞とは城郭の石垣上に建てられた長屋で,鉄砲や弓矢が納められ、戦時には格子窓から敵を狙い撃つなど、城壁よりも強固な防御施設であった。 本丸には15棟の多聞があったが、現在残っているのはこの富士見多聞だけである。

富士見多聞

2016年11月より、この多聞内部が公開された。

富士見多聞

格子窓から外を見ると乾通りが見える。 その向こうは紅葉山のあたりと思われる。

富士見多聞

春と秋に乾通りが一般公開される時、乾通りから蓮池堀越しに、高い石垣の上に富士見櫓や多聞を見ることができるようだ。 しかし私はまだ行ったことがない。

石室

抜け穴とか、金蔵とか諸説あるが、大奥御納戸の脇という場所から、非常の際に大奥の調度などを納めたところと考えられると説明されていた。

一見すると、戦時中の防空壕の様である。

石室石室

本丸御殿跡

本丸御殿は、地震や火災により何度も倒壊・焼失を繰り返し、そのたびに再建されていた。 しかし文久3年(1863)の焼失以降は再建されず、本丸の機能は西の丸御殿に移された。

現在は広い芝生広場となっているが、天守台へのスロープ上にある本丸御殿の説明版をみると、往時はかなりの建物がびっしりと建っていたようである。

本丸跡

天守台

家康により建てられた江戸城天守閣は、その後2代目秀忠、3代目家光の時に建て替えられたが、明暦の大火(1657)で焼失した。

焼失後、ただちに再建計画がなされ、加賀前田藩により天守台が築かれた。 しかし家光の異母弟である会津藩主・保科正之は、「天守はもはや無用の長物、大火の被災者救済と江戸の街の復興が先であろう」と進言し、天守再建は断念された。 これ以降は、本丸の富士見櫓を天守の代わりとした。

天守台

初代の天守台は黒田長政が築いたそうで、現在の天守台は、明暦大火後に加賀前田藩により再建された4代目のものである。

天守台

天守台の上から本丸御殿跡の芝生広場を眺める。

天守台

天守台の二の丸側石垣には、文久3年(1863)の本丸御殿焼失時の大火の焼跡が残る。

天守台

汐見坂

本丸と二の丸を結ぶ坂の一つに汐見坂がある。 江戸時代には城の近くまで入り江が迫り、この坂から海がよく見渡せたことから汐見坂と呼ばれるようになった。

本丸から汐見坂への入口には汐見坂門があり、正面石垣の上には汐見二重櫓があった。

汐見坂門跡

汐見坂の下には白鳥濠があり、奥の出っ張った石垣の上には台所前三重櫓があった。

白鳥濠

汐見坂を下り振り返る。 結構な急坂である。

汐見坂

汐見坂を下り、左に平川門方向に曲がると、江戸城にふさわしい大変綺麗な高石垣が続く。 これは平成に入り修復された石垣で、修復の際に、石垣の下から明暦の大火時の大量の瓦礫が見つかったようだ。

汐見坂脇石垣

梅林坂

汐見坂と同様に、本丸と二の丸を結ぶ坂である。 文明10年(1478)に太田道潅が天満宮を祀り、数百株の梅を植えたので梅林坂と名が付いたという。 現在も昭和42年に植えられた、50本ほどの梅の木がある。

梅林坂

往時の梅林坂は石段で、坂の上には渡櫓門があった。 「上梅林門」と呼ばれ、大奥にいちばん近い門である。

梅林坂

梅が咲き始めた頃の写真である。 梅林坂近くにある平川門は、大奥女中の通用門であった。 この平川門から入った奥女中達は、梅を眺めながらこの坂を上がったのだろう。

梅林坂梅林坂

江戸城本丸には、役人や警備の侍、将軍の側用人など、現代で考えればサラリーマンのような人が多くいた。 この人達の昼食はどうしたのか? という疑問が湧いた。

昔は1日2食だったそうだが、どうも江戸期には3食の習慣が根付いたようである。 しかし江戸城内に社員食堂らしきものは無い。 大名のお供として城に来た武士や、番所に勤める武士、役人たちは弁当を持ってきたのだろうか? そして、それぞれの詰所かどこかで食べていたのだろうか?

江戸城に勤める武士たちの一日の暮しを考えると、興味はなかなか尽きない・・・

 


 

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