大手三の門(下乗門) ここで駕籠を降ろされた

大手門
大名などの登城ルート、今風に言えば通勤路は、大手門と内桜田門(桔梗門)から入ると定められていた。 どちらの門から入城しても、「大手三の門」に至り、その後「中之門」、「中雀門」を経て本丸御殿へと入った。

下っ端の幕臣は、大手門外の下馬所で駕籠を降りなければいけなかったが、「乗輿」の特権を持つ、大名や500石以上の高級役人、高家などは、大手三の門まで駕籠に乗ったまま進むことが出来た。 しかし大手三の門では、徳川御三家と日光門主を除く、すべての大名が駕籠を降ろされた。 このため、この門は別名「下乗門」と呼ばれている。

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二の丸と三の丸の境

門の前には二の丸と三の丸を分ける濠があり、下乗橋という橋が架かっていた。
この濠は大正8年に埋められ、橋も取り壊され、現在は石垣だけが残る。

大手三の門

この門の手前に「下乗」の札が立ち、尾張・紀伊・水戸の御三家と日光門主を除き、全員駕籠を降り、この先は徒歩での登城となった。

大手三の門

同心番所

江戸時代には、濠に架かる下乗橋の手前に同心番所があった。 現在は大手三の門の枡形内に移築されている。

大名達は、この大手三の門で駕籠を降り、同時に家臣の人数も絞られた。 残された家臣たちは、ここで主人の下城を待つことになる。 同心番所は、この残された家臣たちを見張っていたそうだ。

大手三の門

二の丸と三の丸の境

枡形の櫓門石垣が残る。 櫓門というより、三方を多聞櫓で囲んだ枡形で、江戸城で唯一の形をした門であった。

大手三の門

三方が多聞櫓ということは、高麗門を突破して枡形に入ってきた敵は、三方の多聞から矢や鉄砲で狙い撃ちされる。 まさに「袋の鼠」状態になることだろう。

それにしても、御殿様といえどこの先は徒歩である。 道は砂利くらい敷かれていたのだろうか? 雨が降って傘を差しても、映画やテレビに出てくるピシッとした裃(かみしも)は、ヨレヨレになっていたのではないか??

また主人の下城を待つ家臣たちは、どこで待ち、何をしていたのか? 「下馬評」という言葉の語源と良く書かれているが、何もせずにおしゃべりしていただけなのか? 駐車場ならぬ、駐駕籠場のような場所は? 考えると、様々な疑問が湧いてくる・・・


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