和田倉門 酒とするめを配った明治天皇

大手門
お濠に沿って日比谷通りを大手町方向に歩くと、お濠の上に架かる木橋が見えてくる。 和田倉門に向けて架かる和田倉橋である。

江戸末期の慶応4年(1868)、勝海舟と西郷隆盛の会談により、江戸城の無血開城が決定された。 同年10月には明治天皇が京都から東京に行幸し、江戸城に入城。 この時に呉服橋から和田倉門を経て入城したそうだ。 そして江戸の民衆との融和策の一環として、市中へ約3000樽の酒と1700枚のするめが下賜された。 街中でするめを焼き、大宴会のお祭り騒ぎが行われた・・・ ことだろう。
 

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海を埋め立てて造った濠

馬場先門の交差点から、和田倉門に向けて日比谷通りを北に歩く。 左手に馬場先濠、右手に丸ノ内のオフィス街が続き、左右で新旧対照的な眺めが続く。

和田倉濠沿いを歩く

日比谷濠から和田倉濠にかけては、内濠の中で一番水面が低いそうだ。 江戸時代初期の頃は、日比谷入江と呼ばれる海が入り込み、家康の時代に埋め立てられた。 この時、埋め残して濠としたものが、日比谷濠や和田倉濠だそうだ。

馬場先濠

和田倉門

慶長の頃まで「蔵の御門」とも呼ばれ、士衆通行の橋とされていた。 日比谷入江に望んで和田倉と呼ばれる蔵があり、道三堀の辰ノ口で荷揚して和田倉に集積していたことが名の由来のようだ。

和田倉橋

遠くから見る和田倉橋は、往時の雰囲気を持っている。 関東大震災で門と共に大きな被害を受け、以前の木橋を模して再建された。

後ろにはパレスホテルが聳え立つ。

和田倉橋

橋の本体は鉄筋コンクリート製だが、欄干は木製で、擬宝珠(ぎぼし)は元の橋のものを使用しているそうだ。

「平川橋」のように、橋の上も木張りであれば良かったのだが、残念ながらアスファルトである。

和田倉橋

半蔵門に移築された高麗門

渡櫓門、高麗門は大正12年の関東大震災まで残っていたが、渡櫓は震災で大きな被害を受けて解体された。 高麗門も解体・保存され、戦後に半蔵門に移築された。

和田倉橋を渡り枡形内に入ると、渡櫓などの石垣が残る。

和田倉門跡

和田倉橋を振り返る。 レンガ造りで白い三角屋根を持つ建物は銀行協会のビルで、東京銀行集会所の外構が保存されている。

和田倉門跡

左右に残る渡櫓の石垣。

和田倉門跡和田倉門跡

和田倉噴水公園と巽櫓

枡形を抜けると、和田倉噴水公園が広がる。 昭和36年に天皇皇后陛下ご成婚を記念して作られたものである。

会津藩上屋敷だった噴水公園

江戸時代は会津藩松平家上屋敷だった場所に作られた。 会津藩といえば、幕末に「天皇に謀反を起こした賊軍」の汚名をきせられ、白虎隊に代表される会津戦争の悲劇を思い出す。

和田倉噴水公園

巽櫓(桜田二重櫓)

噴水公園から内堀通りへ出ると、桔梗濠の向こうに巽櫓が見える。 本丸から見て東南(辰巳)にあることから名づけられた。

巽櫓

関東大震災で損壊し、復元されたもので、「桜田二重櫓」とも呼ばれている。 狭間や石落としを備えた、実戦的な櫓であることがわかる。

江戸切絵図で見る

切絵図で見ると、今は埋められた道三堀や辰ノ口が描かれている。 道三川岸を囲んだ赤丸の右側に、上下逆さまだが「御評定所」と書かれている。 これは幕府の最高裁判所に相当するものだそうだ。 またパレスホテルの場所は、歩兵屯所だった。

江戸切絵図

お濠を覆う水草の意外な正体と働き

巽櫓の写真のように、お濠の水面を水草が覆っているところが多い。 ちょっと気持ち悪いし、見た目が非常に悪い。 冬になれば消えるのだろうか? やはり水面に白い城壁を映すほうが情景としては優雅である。

 

何の水草なのか調べたら、意外な答えが見つかった。 どうも絶滅危惧種の「ツツイトモ」という水草らしく、水質浄化効果が高いそうだ。 アオコの大量発生で水質が悪化していたが、この水草のおかげで透明度が上がってきているとのこと。

絶滅危惧種であれば、刈り取る訳にもいかないのであろう。 如魔物に見えたが、実は「水質浄化の助っ人」であった。

 


 

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