神田橋門

大手門
常磐橋門から神田橋門へ向かう。 堀沿いに進むが、この先には”河岸”が増えてくる。 隅田川などから船で荷を運び、荷揚げを行っていた場所である。

堀の反対側には経団連や日経ビル、JAビルなどがあったが、再開発で「大手町フィナンシャルシティ」という高層ビル群に大きき様変わりした。

 

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埋められた竜閑川

しばらく進むと、「竜閑橋」という大きな三叉路に出る。 江戸時代には、常磐橋と神田橋の中間あたりから、隅田川の浜町付近を結ぶ「竜閑川」と呼ばれる運河があった。 江戸の物流を担う動脈の一つだったそうである。

竜閑橋交差点

竜閑川に架かっていた橋の名が「竜閑橋」で、その名が交差点名として残っている。

竜閑橋交差点

交差点手前の小さな公園には、大正15年(1926)に架けられた、竜閑橋の欄干が保存されている。

竜閑橋の橋桁

竜閑川は、昭和25年に戦後の瓦礫処理の為埋め立てられ、完全に姿を消している。

この竜閑川に「今川橋」という名の橋が架かっていたが、「今川焼き」発祥の地だそうだ。 私が子供の頃は「今川焼き」とか「たいこ焼」と呼んでいたが、最近は「大判焼き」が主流のようである。

鎌倉河岸

竜閑橋交差点の先に、鎌倉河岸の説明板が立つ。 その説明版にある江戸時代の地図を見ると、竜閑橋から神田橋にかけて鎌倉河岸が続いていたことが判る。 また竜閑川、竜閑橋も描かれている。

江戸切絵図

鎌倉橋

鎌倉橋は江戸時代には無く、昭和4年(1929)に架けられた。 この鎌倉橋の欄干には、昭和19年11月の空襲による機銃掃射の弾痕が、大小30個ほど残っているそうだ。 写真を撮り忘れたが、欄干の石が欠けているようだ。

鎌倉橋

【鎌倉河岸】
徳川家康の江戸入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていた。 そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられた。

<千代田区町名由来版より抜粋>

物揚場跡の碑

神田橋交差点の手前には、「物揚場跡」の碑が立つ。 この「物揚場」は築城資材の集積場で、人足などの宿舎や飯場も含め、広大な土地を使っていた。 そして城造りが一段落した寛永の頃から、大名の下屋敷や蔵屋敷が建てられるようになった。

神田荷揚げ場

神田橋門

昔は「芝崎口」という名であったが、門内に土井大炊頭利勝の屋敷があったので、「大炊殿橋(おおいどのばし)」と呼ばれるようになり、その後「神田橋門」に改められた。

徳川家将軍が上野寛永寺や日光東照宮へ出向く場合に、神田橋門から筋違橋門を通る御成道だったので、警備は厳重だったそうだ。

神田橋

神田橋門は明治7年(1873)に櫓門が撤去され、橋は関東大震災で焼失したそうだ。 現在の橋は、大正14年(1925)に架けられたものである。

神田橋

神田橋門跡

「物揚場跡の碑」の説明版にあった切絵図を見ると、現在の神田橋より少し東寄りにあったようだ。 地図上の「現在地」は、「物揚場の碑」があるところである。

江戸切絵図

現在の首都高速都心環状線内回りの、神田橋出口あたりにあったものと思われる。

神田橋門跡

変貌する大丸有エリア

大手町、丸の内、有楽町の3つの地区を含むエリアが「大丸有」と呼ばれている。 丸ノ内の三菱村を筆頭に再開発が進み、神田側からの眺めは大きく変わった。

神田橋近辺のビル群

 


 

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