飯高寺(飯高壇林跡)と日本寺

飯高寺(飯高壇林跡)
千葉の匝瑳市(そうさし)。 ふりがなが無いとなかなか読めない地名で、成田空港の奥から九十九里浜にかけて広がる市である。 ここにある「飯高壇林跡」へ行こうと、妻が言うので行ってきた。

「いいだかだんりん?って何?」、「どういう字を書くの?」と聞くほど、初めて聞く名であった。 急いでネットで場所などを調べ、「飯高壇林跡」という字で、お寺であることが判明。 成田空港の滑走路の下をくぐる道から、千葉の米どころを、ナビに導かれるままに、のんびりと車を走らせる。

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飯高寺(飯高壇林跡)

寺の名は飯高寺で、”はんこうじ”と読む。 しかし飯高壇林跡は”いいだかだんりんあと”と呼ぶそうだ。 「壇林」とは、仏教の学問所、いまでいう大学に相当するそうだ。

駐車場から坂道を上ってくると、急な階段の上に風格ある総門が待ち構えていた。

飯高寺(飯高壇林跡)

総門を一歩入ると、そこには大きな杉の参道が続く。

飯高寺(飯高壇林跡)

やがて正面に、大きな屋根を持つ飯高寺が現れる。 屋根は檜皮葺だろうか? 本堂ではなく”講堂”と呼んでいるようだ。 境内には鐘楼や鼓楼も建ち、静けさに満ちている。

飯高寺(飯高壇林跡)

飯高寺(飯高壇林跡)

飯高寺(飯高壇林跡)

【飯高壇林とは】
飯高檀林跡(飯高寺)は、天正8年(1580年)から明治7年(1874年)まで、294年にわたって、法華宗(日蓮宗)の学問所がおかれた寺。
檀林とは栴檀林の略語で、僧侶の集まりを栴檀の林にたとえ、寺院の尊称であると共に仏教の学問所を意味する。 最盛期には600~800人の学僧が集まり、多くの名僧を輩出した。
廃檀当時のまま保存され、その中の総門、鼓楼、鐘楼、講堂は国指定の重要文化財となっている。 また、境内全体は県指定史跡に指定され、うっそうとした杉林が歴史の重みを感じさせてくれる。

(千葉県公式観光物産サイトより抜粋)

参道に恐ろしげな名が刻まれた、小さな石碑がひっそりと立っていた。

飯高寺(飯高壇林跡)

説明版も何もないが、何か由来があるかとネットで調べてみた。

【祟石の由来】
正保四年(1640)、飯高檀林で総門前に石段をつくることになり、江戸から石を買い、小見川まで船で運んで来た。 その後、陸路を檀林まで運ぶのであるが、途中の神生村(旧山田町)の藤右衛門という者が、そのうちの一つを盗んでしまった。
ところが、藤右衛門の家に不幸が続き、「石を盗んだ祟りだ」ということになった。  そこで、親類の勘衛門という人に頼み、飯高寺名主与右衛門を通して詫を入れ、ざんげの意を「祟石」と刻し、檀林へ戻したと言われている。(匝瑳市HPより抜粋)

残念ながら、講堂の内部は見ることができなかった。 しかし京都や奈良の寺とも異なり、飾り気もなく質素で、学問の場にふさわしい寺であった。

日本寺

飯高壇林跡から車で5分ほど走った所にある、日本寺にも立ち寄る。 この寺の呼び名は”にほんでら”ではなく、”にちほんじ”と読むそうだ。


山門に架かる扁額は、本阿弥光悦の筆によるもので、日本三額の一つと言われている。 もちろん本物は本堂に収められ、山門に架かるのはレプリカである。

日本寺(匝瑳市)


立派な杉が立ち並ぶ参道の先に、本堂が見える。

日本寺(匝瑳市)


このお寺は、日蓮宗の壇林(学校)の中で中村檀林として、慶長4年(1599年)から明治8年(1875年)の廃檀まで270余年間隆盛を極め、常時500名を超えた学僧と、延べ10万人が僧侶となって全国各地へと巣立っていったそうだ。

日本寺(匝瑳市)


境内には、水戸黄門お手植えと伝わる、紅葉の木があった。

日本寺(匝瑳市)


今まで聞いたこともない名の寺であったが、千葉にもこのような古い寺があったとは知らなかった。
また匝瑳市や多古町に住む方には申し訳ないが、何故このような田舎に僧侶の学校ができたのだろうかと疑問が湧いてきた。 この疑問に対する解答は見つかっていないが、「浮世の誘惑から断絶するため」だったのではないかと、適当に解釈して納得しておいた。それにしても、意外とよい所で、満足度の高いお寺訪問であった。


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