世界一の花嫁行列 皇女和宮の江戸降嫁 その2


万延元年(1860)、皇女和宮の輿入れが決定。 婚姻相手は徳川14代将軍家茂(いえもち)である。 そして幕府によって、その準備が一斉に始められた。

翌 文久元年10月、和宮一行は中山道を下ることになるが、この中山道沿いの宿場などに幕府より通達が発せられ、近隣の住民をも巻き込んで、てんやわんやの大騒ぎが始まった。


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空前絶後の大行列

文久元年10月20日、和宮の行列は京都を出発して中山道を下り、江戸へと向かった。

しかし人質同然で降嫁する和宮を奪還すべく、過激な攘夷派が行列を襲撃するという噂が広がった。 そのため御輿の警護に12藩、沿道警護に29藩を動員し、幕府の威信をかけて絶対安全の確保をめざした。 この結果、空前絶後の大行列が出現した。

津波のように人が押し寄せた

行列のお供は、京都方1万名、江戸方1万6千名。 持参した物も含め、行列は50Kmもの長さに及び、沿道で行列をすべて見送るには丸4日を要したそうだ。

Wikipediaによると、1843年時点の近江・大湫宿(現 岐阜県瑞浪市)は、人口338人、家数66軒、本陣、脇本陣 各1軒、旅籠30軒だったそうである。 この小さな宿場に、延べ人数で、和宮一行28,000人、人足28,000人、尾張藩警護団1,520人、計55,520人が4日間に殺到し、大混乱したそうだ。

これはもう、行列というより、ひたひたと押し寄せる津波、大草原で発生するイナゴの大群のようなものである。

実際には延々と50Kmもの数珠つなぎの行列ではなく、先行して街道筋や宿泊場所を検分する役や、先触れ、警護、本体などに分かれて歩いていたようだ。

宿場の受け入れ準備

この大行列を受け入れる宿場の準備も大変であった。 大名の参勤交代などもあったが、天地をひっくり返すほどの規模の違いである。 また高貴なお方だけに、宿泊する部屋の壁を塗り替え、襖や戸棚も京風に変えるなどの準備を行った。

守山宿 真綿入りの畳を準備

守山宿の本陣では、畳表の下に真綿を敷き詰め、床下から槍などの攻撃を防いだ。

赤坂宿 お嫁入り普請 家も建て替えた!

街道沿いの257の家屋と空き地を調べ、古い建物は見苦しいという理由で建て替え、空き地に新築を行った。

この結果48軒を建て替え、空き地に7軒を新築。 正面は2階、裏が大屋根の1階という造りで、後に「お嫁入り普請」と呼ばれる。 まぁ見栄え良くしたということだ。

河渡宿 1週間前から井戸の使用は禁止

10月26日の昼に河渡宿へ到着。 ここで和宮一行は昼食をとる。

昼食時の飲料水には水質の良かった本陣・水谷家の井戸水が使用されたが、到着一週間前から青竹の矢来が組まれ、しめ縄がはられて「使用禁止」となった。 これは井戸水を汚され、食中毒や下痢にならないように警戒したものと思える。

河渡宿 長良川を船で渡る

河渡川(長良川)を渡るため、「河渡の渡し」も万全の体制がとられた。 中央に屋根をかけ、障子を張った長さ9間(約16m)の舟に「御駕籠台」を据え、駕籠のまま載せて川を渡るのである。

舟には8人の水主が乗り、お供舟は2艘、引舟は3艘。 他に川下に用心舟を4艘出すなど、非常の場合に備えたという。

太田宿 食器や寝具の数が半端ない

太田宿には10月25日に宿泊したが、宿場が調達した食器や寝具類の記録が残る。

・人 馬 : 7,856人 280頭
・寝 具 : 布団 7,440枚 枕 1,380個
・食 器 : 飯椀 8,060個 汁椀 5,210個、お皿 2,110枚
・その他 : お膳 1,040個 通い盆 535枚

馬籠宿 今でいうインフラ整備

木曽の山中にある馬籠宿では、街道沿いの石垣を2尺引っ込め、道幅を2間(約3.6m)に拡幅する工事が行われた。 まさに現代におけるインフラ工事といえる。

嫁入り道具は東海道を

嫁入り道具は、東海道経由の別便で一足先に送られた。 そしてその荷物も、街道沿いの宿場に騒ぎを起こした様である。

大垣宿 実物大模型で予行演習

大垣宿では、荷物の様子を下見に行った者から、長さ5間(9メートル)、幅1丈(3メートル)、重さ300貫(1トン)という巨大な荷物を、80人で運んでくると報告を受けた。

これを聞いてビックリ仰天! 荷物が通る前日に実物大の模型を作り、予行演習を行った。 そして狭い橋は欄干を外して幅を広げ、狭い門は取り壊して荷物が通るようにした。

沿道住民たちへの規制

和宮の行列が街道を通過する間、沿道の住民に対し、様々な規制が行われたようである。

・伝馬役以外は一切の外出禁止
・前後3日間の遊興と売り物禁止
・女は姿を見せないこと
・通行を上から見下ろしてはいけない
・正座して迎えること
・看板を取り外し、2階の雨戸は閉めること
・犬猫・牛馬は、鳴き声が聞こえないよう遠くに繋いでおくこと
・寺の鐘などの鳴り物を鳴らしてはいけない

しかし庶民は逞しかった

沿道住民へ様々な規制をかけたが、この世紀の一大イベント、まさにロイヤルウェディングに日本中が沸いたようだ。 この好奇心というか、野次馬根性を満たすため、様々なかわら版が発行された。 中には行列見物の手引書、ガイドブックまで出版され、行列の見どころなど細かく記されていたそうだ。

さぞかし疲れたことだろう

夜中の2時に出発した

11月13日に埼玉の桶川宿に泊まっているが、記録には桶川宿到着が午後2時。 そして午前2時には、最後の宿泊地である板橋宿へ向かって出発した。 いくら若いとはいえ、真夜中の午前2時に叩き起こされ、板橋宿までの約30Kmを進む強行軍である。

最後に板橋宿に一泊し、文久元年(1861)11月15日 和宮一行は無事に江戸到着。 京都を出発して25日の旅であった。 単に輿に座っているだけとはいえ、クタクタに疲れていたのではないだろうか?

そして費用総額は?

沿道への経済効果は?

和宮を乗せた輿行列は、中山道を経由して25日間134里、継立人足延べ60万人、馬15,000頭を動員し、道中経費74万両、現在の金額に換算して、推定152億円を費やしたそうだ。 これは当時では膨大な金額であり、沿道の宿場や近隣の村々に、かなりの経済効果をもたらしたものと思える。

借金は踏み倒した

しかし実際には、村々への支払いは半分程度だったようで、不足分は村が負担したそうだ。 要は幕府は借金の半分ほどを踏み倒したのである。 これでは経済効果もクソもない。


こうして和宮の江戸への旅は無事終了した。 しかしこの話は、和宮が結婚した後の話にも、多くのドラマが待ち受けているのである。

この続きはまた日を改めて・・・


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