世界一の花嫁行列 皇女和宮の江戸降嫁 その1


文久元年(1861)10月20日、沿道で行列をすべて見送るには、丸四日を要したといわれる、超巨大な大行列が、京都から江戸に向けて旅立った。

行列の中心人物は「和宮親子(ちかこ)内親王」。 徳川14代将軍家茂(いえもち)に嫁ぐための、花嫁行列である。

この皇女和宮が中山道を下った大行列を調べると、面白い話が数多く見つかる。 そこでこれらの逸話をまとめてみることにした。


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皇女和宮とは?

皇女和宮、正式には和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)と呼ぶ。 弘化 3年(1846)に仁孝天皇の第八皇女として生まれた。

皇女和宮

和宮は明治天皇の叔母さんである

仁孝天皇と言われても良く判らない。 明治天皇までは判るが、それ以前となると、学校で習った覚えはない。 そこで明治天皇を中心に、平民の言葉で考えてみる。

・父の仁孝天皇は明治天皇の2代前。 つまり明治天皇のお爺さんにあたる。
・和宮と腹違いの兄が次の孝明天皇となり、その息子が明治天皇である。
・ということは、皇女和宮は、明治天皇の叔母さんということである。

わずか6歳で婚約した

和宮が6歳になった嘉永4年(1851)、有栖川宮熾仁(たるひと)親王と婚約する。 親王は17歳であった。

当時皇族の女性の婚姻は4宮家と5摂家に限られており、そこで縁組が整わなかった場合、生涯独身で通し、最終的には尼僧になったそうだ。

婚約破棄に追い込まれる

幕末になると幕府の求心力は落ち、朝廷の権威と幕府を結び付けて幕藩体制の強化を図ろうと、公武合体策が浮上する。 つまり朝廷と将軍家に姻戚関係を作ろうということである。 そこで白羽の矢が立ったのが皇女和宮である。

しかし和宮は既に婚約しているので、婚約破棄と将軍家降嫁に向け、幕府は様々な説得工作を開始した。

まだ結納を済ませてないから大丈夫!

和宮の兄にあたる孝明天皇に、幕府側から和宮の将軍家降嫁をお願いしたが却下される。 しかし幕府も必死である。 繰り返し再考を願い出ているが、その理由の一つが『和宮と熾仁親王は、まだ結納を済ませていない。 婚約破棄しても問題ない!』と言ったらしい。

結構大胆なことを婚約破棄の理由に挙げていると思う。 また外堀を埋めるべく、和宮の生母や叔父などへの説得も行っていたようだ。

和宮は丙午の生まれだ!

幕府の説得は、天皇だけではなく、婚約相手の熾仁親王にも手を伸ばしている。
この説得内容がこれまた凄い! 『和宮は丙午! 丙午生まれの女は、災いをもたらす』と脅し、婚約を諦めさせた。

こうなると屁理屈みたいなものである。 しかし、嫁いだ徳川家茂も結局は早死にした。 これは丙午の俗説が当たったのだろうか?

岩倉具視の悪知恵

度重なる要求を受け、孝明天皇は近臣の岩倉具視に意見を求めた。 岩倉具視とは、今は見かけなくなった500円札でおなじみである。

岩倉は『和宮様を徳川に差し上げる代わりに、通商条約の破棄を約束させることになさいませ』というものであった。 要するに取引の材料に和宮を使おうという、岩倉具視の悪知恵である。

孝明天皇の決断

岩倉具視の悪知恵を真に受け、天皇は幕府に対して「通商条約の破棄と攘夷 つまり外国勢の排除」を求めた。

すると幕府側より、「7、8年から10年以内に条約を破棄する」と返事が返り、ついに天皇は和宮説得へと舵を切ったのである。

天皇の説得と和宮の決断

孝明天皇は和宮説得を試みたが、和宮の徹底的かつ強い態度で拒絶される。 この時和宮は14~15歳頃。 現代でも一番扱いに困る年頃であろう。

困り果てた天皇は、「お前が嫁に行かないのなら、昨年生まれた自分の娘”寿万宮”を代わりにやることにしよう。 ついでに俺は責任とって、天皇辞める。 そしてお前は出家しろ・・・」と言ったそうだ。

これを聞いた和宮は、「自分が我儘を通すと、わずか1歳の乳飲み子を江戸に送り、下手すりゃ帝が退位!」「うぅ~ぅ! どうしよう・・・ これってヤバくねっ!」って感じで、渋々降嫁を承諾したのである。


こうして朝廷と幕府の思いを絡ませながら、和宮の将軍家降嫁は決定した。 そして日本中を巻き込んだ?花嫁行列へと話は展開するのである。

この続きはまた日を改めて・・・


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